第十三章 命の咲かせ方


 気丈に言っていたが、最後のほうで声が震えたのは隠せなかった。千歳もついさっき、橘に会ってこの話を聞いたとき、衝撃の大きさをすぐには飲み込めなかったのだ。
 ――本人次第って、もう目覚めない可能性もあるってこと?
 ――そうならないよう、信じてやるのがお前にできることだ。
 子供のように追及してしまった千歳に、橘はそう言ってそっと髪を撫でた。しっかりすることを促す言葉と裏腹に、大丈夫かと問いかけてくるような気遣わしい仕草が余計に、怖かった。
 信じること以外、もう何も尽くせる手は残っていないのだと、暗に告げられたのが伝わってきた。
 それはつまり、また巴に会えるも会えないも、天の采配に賭けるしかないということだ。
「そう。……そっか」
「ケイ」
「でも、生きてはいるんだよね?」
 大丈夫? と問うのも、一緒に待とう、と励ますのも、言葉にすると何もかもが陳腐になってしまう気がして、名前を呼んで手を握るしかできなかった。生きている。勿論だ、それ以外なんてあってはならないことだ。何度も何度も頷いた千歳に、ケイが「もう分かったって」と苦笑した。
「十分だよ、それだけ聞ければ。教えてくれてありがとう」
「ううん」
「あと、僕を信じて、連れ帰ってくれたのも。……ちゃんと覚えてるよ」
 ケイの手が千歳の手を抜け出して、くしゃくしゃと頭を撫で回した。わ、と驚いて目を瞑りながら、今日は色んな人に撫でられる日だ、と思う。そんなに労わられるべき顔をしているだろうか、自分ではできる限り隠したつもりでいるのに。やはりまだ、支部での生活が長い人たちには、心の消耗を呆気なく見透かされてしまう。
「別れてしまった人たち、無事よ。全員とは言えないけど。橘少尉が連れ出したみたい」
「ああ、そうなんだ。良かった」
「弟切さんも無事。ナーシサス大尉もね」
 涙が出そうになるのをごまかすために、話を変えた。ケイがほっとしたように微笑みを浮かべる。その奥で点滴のパックがいつのまにか空になっていたのに気づいて、千歳はああと席を立った。
「看護婦さんに言って、新しいのをもらってくるわ」
「別にいいよ。もう起きたんだし」
「そういうわけにもいかないでしょ。ていうか、ケイが起きたことも言わなくちゃ」
 すっかり話し込んでいたが、そういえば、目が覚めたら報告してくださいと頼まれていたのだ。予定時間を過ぎて、そろそろ心配をかけているかもしれない。
「千歳」
 思い出して、慌てて出ていこうとした千歳をケイが呼び止める。
「なに?」
「悪いんだけど、また寝ちゃいそうでさ。看護婦さんに伝えたいことがあるから、何か書き置きできるもの、くれない?」
 千歳は思わず自分のポケットや襟元を触った。だが、新王都支部へ行ったときそのままの格好で、何も持っていない。辺りを見回すと、カルテの脇に鉛筆が刺さっていた。それと、テーブルに未使用のカルテ用紙が数枚、使いかけて忘れたように置いてあった。
「これでもいい?」
「ああ、上等。書ければ何でもいいから」
 起き上がるのが辛いだろうと思い、カルテを挟んだボードごと、鉛筆と用紙を渡す。ケイは十分そうにそれを受け取って、出ていく千歳に礼を言い、見送った。
 ぱたん、と閉まったドアを見て、その目がふっと柔らかに笑む。
「……ほんっと、馬鹿みたいに僕のこと信じてるんだから」
 ボードの上に紙をのせて、鉛筆を握る。衰弱からか、書くための力を入れるだけで震えそうになった。ケイはその手を反対の手で支えて、少し考えてから、鉛筆を滑らせた。
「そういうところが、可愛かったんだけどさ」
 清潔な炭の匂いが、真っ白なシーツの上に広がった。

 特別医務室は手術後のまだ容体が不安定な患者や、一定の階級以上の将校など、限られた人を置くためのいわば個室である。患者を静かな環境で休ませるため、そこは支部の建物と花壇を隔てて建てられた小さな別棟で、通常の医務室とはいくらかの距離があった。
 日頃は複数の看護婦が常駐しているのだが、今は手が空かず、それぞれの患者に付き添いをつけて別棟は留守にしている形だ。千歳は報告のために一度、医務室へ向かい、ケイの施術に当たった医師と看護婦を連れて戻ってきた。揃いの白いドアが一定間隔に並ぶ無機質な廊下を、足早に歩いていた、そのときだ。
「待ちなさい、君はまだ動けるはずが……!」
 突き当りの階段から、男の焦った声が聞こえた。その声にとても覚えがあるような気がして、思わず視線を向ける。きゃあっと、女の子の悲鳴が聞こえて、白い入院着が廊下に転がり出てきた。階段を落ちたのだ。
「大丈夫?」
 うずくまる少女に駆け寄って、顔を上げた彼女を見て、千歳は絶句した。どうして貴方がここに、という衝撃が、千歳の唇から一切の言葉を奪った。
 すすき色の長い髪と、入院着の下から覗く足に痛々しく巻きついた包帯。巴が千歳を見上げて、震える唇を開いた。
「……ケイ」
「え?」
「ケイは、どこに……?」
 いつも微笑みを湛えている目を怯えたように見開いて、巴は千歳の足に縋りついてきた。顔は蒼白で、歯をガチガチと鳴らし、自分の爪が千歳の脹脛を引っ掻いて、白い筋を何本も残すのも構わずに。
 彼女の異様な錯乱状態に驚いて、千歳はびくりと肩を跳ねさせた。巴はそれでも正気に戻らず、尚も千歳の足に腕を絡めたまま辺りを見回した。
 そうしてすぐ傍にあったドアのプレートに目を留め、弾かれたように立ち上がった。
「ケイ!」
「あっ、巴! そんな動いたら――……」
 傷が開くわ、と止めようとした千歳の手を振り切って、彼女は〈桐尾ケイ〉と書かれた部屋のドアを開けた。瞬間、中から一陣の強い風が吹き抜けてきて、何か白いものが千歳たちの顔や腕にばらばらと当たった。
 ――花吹雪だ。
 思わず目を庇って下を向いた千歳は、足元に散っている花びらを見て、大きく瞬きをした。桜だ。芯に淡い桃色を差した桜の花びらが、辺り一面に散らばっていた。爛漫の春が来たのかと錯覚しそうな花の香りに、一体何が、と顔を上げる。
 青く晴れた窓を背景にして、ベッドの上に、花びらに埋もれたケイが眠っていた。
「あ……、あ……っ」
「これは……!」
 がたがたと震えて両手で頬を覆った巴の後ろから、息を切らせた犀川がやってきて、目を瞠った。階段から聞こえた声は、犀川だったのだ。彼の顔にはこの上ない驚嘆と、かすかな恐怖が浮かんでいる。
 千歳は犀川の表情を見た途端、目の前に広がっている光景の可能性に頭を殴られて、そんなまさかと血相を変えてケイの元へ駆け寄った。
「ケイ? ねえ、ケイ!」
 声をかけて肩をゆすってみても、彼の瞼はぴくりとも動かない。胸に吹き溜まっていた季節外れの桜の花びらが、はらはら落ちてゆくばかりだ。嘘だ、と掴んだ手は温かくて、希望が胸を走り抜けた。だがその指は、白くなるほど強く握っているのに、押し返してくる脈動が感じられず、千歳は恐る恐るその口許に手を寄せた。


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