第九章 門井ネリネ・下


 錦成(きんぜい)は、かつて王都の中心部だった土地である。往時は絢爛豪華な王城が座し、錦の旗が街路の一本一本にまで煌いたとされる街だが、今となっては荒れ果てた建物の残骸が点々と影を連ねているばかりだ。裸眼では荒い砂埃が目を傷めるため、ゴーグルの着用が推奨されている。生活はなく、片足を引きずった野良犬が食べ物を探して彷徨う、そんな街である。
「中尉、この辺りでいいですか」
「ああ」
 今日その錦成に、香綬支部から二十ほどの部隊が、大きな荷物を背負って入ってきた。はっ、と返事をした一等兵が、仲間たちと一緒に下ろした荷物をほどく。白いテントが、かつて父を訪ねてやってくる各国の皇子たちを出迎えるために敷かれた、広い舗道に張られた。ゴーグルの縁に積もった埃を指で拭って、橘は口許を覆っていたマスクを外す。
「肺に砂が溜まるよ」
「ナーシサス中尉」
 後ろから諫めるように肩を叩かれて、橘は振り返った。ナーシサスが手振りで、ちゃんと着けておきなさいと促す。かつて大帝が暮らした街の空気は、どんなものなのだろう、と思ったのだ。埃臭いばかりで、栄華の名残を見つけることはできなかったが。
「帰ったとき、君が咳き込んでいたら門井君が心配する」
 その名を出せば弱いことを知っているナーシサスが、他の隊員に聞こえないように、マスクを着け直す橘を茶化した。まったくこの人は、と呆れた視線を向けても、どこ吹く風だ。
 十月、東黎国は長年に渡って西華の支配下にあった旧王都への総攻撃を開始。南輝・西華との同盟を失って孤立した北明を味方につけ、彼らの援軍を得て、北東から旧王都を斜めに覆うように侵攻していった。
 これに対し西華は南輝との同盟を以って対抗しようと試みたが、長期戦を感じ取った南輝が早々に戦線を放棄して撤退。先の戦いで西華と約束した報酬が未払いであるゆえ、財政が厳しく動けないと建前をこじつけ、実質離脱の姿勢を取ったのだ。
 思いがけず二対一の劣勢に追い込まれた西華は、初めこそ大量の西鬼を投入して片をつける腹積りのようだったが、破竹の勢いで進む蜂花軍を前に用意が追いつかなくなったのか、年の瀬から旧王都を手放して徐々に撤退を始めた。
 そして今日、二月、ついにかつての大帝の地すら明け渡されたというわけだ。
「情報によれば、旧王都にはもうほとんど西華軍は残っていないそうだ」
「とはいえ、諦めたわけではないでしょう。態勢を立て直して、すぐに奪い返しにくるに決まっています」
「私もそう思う。取ったり取られたりの、一進一退の戦況を防ぐためには?」
「立て直される前に、向こうの支部をひとつ奪えれば」
 ご名答。ナーシサスがゴーグルの奥の目を細めて、ちらとテントの先にいる青年を見やった。
「シランくんにそう入れ知恵したのは君だろう? カーティス中尉」
「さあ。世間話をしたまでです」
「都市を奪えば物資は潤うが、民間の犠牲者が増える。軍事施設を奪えば、リスクは大きいが民間の被害は少なく、武器も手に入る。君の推奨しそうなことだ」
「どうでしょう。彼も元々、同じ意見だったかもしれません。……とはいえ、あの様子では」
 橘も砂煙の向こうに霞む、シランの金の髪に視線を向けた。彼の正面には、支部からの伝令を持ってきた通信兵がいる。雨宮支部長からの最終決定が伝えられているはずだ。それによって明日から、橘たちがどこを目指して侵攻するのかが決定する。
「……民間人は外へ出ろと言っても、隠れてやり過ごそうとするから困ったものです」
「まあ、敵国の軍隊がいかに危害を加えないと言ったところで、信じろというほうが無理な話じゃないかね。実際、そう言って斬りつける愚か者も、残念ながら少なくはないのだから」
 電報に目を通していたシランが、悔しげに唇を噛んで、首を垂れた。ぽん、とナーシサスが橘の背中を叩く。
「理想を守れないからといって、自棄になってはいけないよ」
「はい」
「特に今回、君は万全ではないのだからね」
 橘は黙って、深く頷いた。
 昨夜、ネリネを軍用の馬車で香綬支部へ帰らせたのだ。通常、契約者が長期任務に赴くときは同じ任務に就くのが蜂花の基本であり、彼女も秋からずっと、金杉隊の一員として旧王都を中心とする戦役の後方支援に就いていた。だが年が明けた頃から、どうにも体調が優れない。慢性的な眠気と倦怠感が晴れず、現場でも彼女らしからぬ小さなミスが頻発していたと聞く。このまま更なる激戦の中に連れ出すのは危険だということで、金杉が橘に話し合いを持ちかけ、彼女を一旦支部へ帰すことに決まったのだ。
 橘は、本心としては、今ネリネと離れるのは避けたかった。彼女の秘密の共有者となってからというもの、橘は軍とネリネの間に立って、どうにか双方を守ろうと日々画策していたからだ。ネリネに届く指令書の主は、未だに掴めない。橘はネリネから指令の内容を聞き、対象物を書き換えた偽のものを用意したり、情報が相手の手に渡った頃合いで作戦の変更を申し入れたりしていた。つまり、ネリネの任務を成功させ、尚且つ自軍には悪影響が出ないように、双方の調整を行ってきたのである。
 幸い、中尉に昇進して自身の率いる部隊を持つようになったこともあり、軍議の場に出席して意見を出すことも可能だった。幼い頃、布団に横たわって遠い世界を眺める思いで読み耽った戦術書の記憶を総動員して、橘は他の将校を説き伏せ、自軍が敵の得た情報通りに動くことのないよう徹底的に作戦を練った。
 ネリネと離れてしまうと、そうした影の調整が行いにくくなる。だが金杉の「自らの身を守れない兵を戦場に連れてはいけない」という言い分はもっともであり、反論の余地がなかった。ネリネは話し合いに同席していたが、襲い来る眠気を堪えられず、自分についての話が交わされているというのに舟を漕ぐ始末だ。強引な言い訳を重ねて、金杉に怪しまれても困る。橘は仕方なく、ネリネを帰すことに合意した。
 そして同時に、決意をした。彼女を逃がすならば、今しかない、と。


「周りの人間の中で、誰が敵で誰が味方なのか、全然分からない。俺もネリネも、口には出さなかったが、そんな状況に限界を感じていた」
 ぽたり、落ちた点滴の雫を見つめていた橘が振り返る。
「このままでは埒が明かない。ならいっそ、この奇妙な体調不良による――今思えば、何か薬を盛られていたんだろうが――精神状態の混乱を装って、どこかへ逃げてしまったらいい。そう考えた」
「確かに、そうしたくもなるわね。でも、貴方は?」
「行けるわけがないだろう。二人で消えたら、逃がしたって証明してるようなもんだ」
「でも、貴方がいなくなったらネリネは生きていけないじゃない」
 軍に残った橘はすぐに新しい契約者を宛がわれるだろうが、ネリネは違う。ふらついて、場所も構わず眠ってしまうような状態で、軍を脱してきた身分を隠して新しい契約者を探すことなど、できるというのだろうか?
「それは、あてがあったんだ」
 怪訝な顔をする千歳に、橘は少し迷うような間を挟んだが、やがて口を開いた。


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