第八章 門井ネリネ・上


 ネリネは橘が自分を始末しようとしたのではなく、口を割らせようとしたのを見て、ようやく彼が監視者ではないと確信を得られたようだった。橘の部屋で、鍵もカーテンも閉め切って、震える声をひそめて明かした。
 自らのやっていることに、疑問を持っていることを。諜報員をやめて、ここで純粋に、一人の衛生兵として働きたいと思い始めている。けれどそうなったとき、誰が自分を始末しに来るのか分からないから、周りのすべてが敵に見えて誰に打ち明けることもできず、黙って従わざるをえないのだ。
 橘は頭を抱えた。ネリネにこれまで盗み出したものを訊ねたところ、東黎がかなりの損害を受けた敗戦時の作戦書などが含まれており、彼女の存在が西華にとって、少なからず勝因となっていることが明らかだったからだ。役立たずの諜報員であれば捕虜にもしておくかもしれないが、彼女が引き起こした災いの大きさを思えば、東黎は彼女を許すことはできない。一旦は捕虜として情報を搾り取った上で、必ずや処分するだろう。
 ネリネ自身は自らの盗んだものの大きさが理解できておらず、そのときになってようやく、捕虜になっても生きては釈放されないという事実が呑み込めてきたようだった。震える体に力を込めて、気丈に分かっていないふりをする姿が痛々しかった。誰しも、悪事の罰として与えられる死が楽なものではないことくらい、分かっている。
「そんなに何もかもを恐れていたのに、どうして貴方に本当のことを話したくなったのかしら」
 千歳は未だに戸惑いを整理しきれないまま、不思議に思って訊ねた。
「分からないか?」
 橘がまっすぐ、千歳の眸を覗き込む。
「お前だ、千歳」
「私?」
「お前と出会って、友達になって、あいつは自分に植えつけられている東黎像が歪んでいることに気づいたんだ。お前があいつの、洗脳を解いたのさ」
 千歳は驚いて、黒水晶の眸をこぼれんばかりに瞠った。橘の眦が、ふ、と柔らかく滲む。
「初めて本当に私を想ってくれる人に出会った、と言っていた。お前にとってだけじゃなく、あいつにとっても、お前はこの世で初めて見つけた家族みたいな存在だったんだろう。何かの役に立つからではなく、無償の愛をくれる存在を見つけて、敵であるはずの世界を見る目が変わったんだそうだ。あいつは、国だの軍だのじゃなく、お前を裏切れなかったんだ。俺に助けを求める勇気が出たのも、全部、お前がいたからだろう」
 仄かに林檎の香る指の背で、橘が千歳の瞼の下をなぞった。それが涙を拭う仕草だと気づいて、千歳は慌てて顔を背け、袖で乱暴に目元を擦った。一度でも泣いてしまったら、堰を切ったように泣き出して、これ以上の話を聞けなくなってしまう気がしたのだ。
 橘はそれを察したように、また林檎をひとかけ取って、口を開いた。
「俺はネリネに、このことは誰にも言うなと口を封じた」
「ええ……」
「言ったら、彼女は助からない。彼女は命令に従わざるをえない状況で、利用されていただけだ。先に彼女を操っている者を炙り出して、そいつに西華との内通を認めさせてから軍に事情を訴えれば、きっと命だけは助かる」
「黒幕を探し出そうとしたの? 二人だけで」
 橘が頷いた。
「そうするしかなかったから、やると決めたんだ」


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