第九章 門井ネリネ・下


「彼女には、恋人がいた」
「……え?」
「俺じゃない。誰だったのか、結局分からずじまいだ」
 思いがけない事実に、千歳は口を開けたまま、まじまじと橘の顔を眺めた。ここまでの話を聞いて、てっきり――二人は公私共にパートナーだったのだと思っていた。それでなくとも、ネリネに恋人がいたなんて初耳だ。親友だったあのネリネに、橘も知らないそんな人が――なんだかいけないことを聞いてしまったような、少し寂しいような、色々な感情が湧いて驚きが治まらない。
「一度、彼女に口づけ以上の供給を持ちかけたことがある」
 千歳の心臓が、さらにどきりと跳ねた。
「そのときに言われたんだ。学生時代から想い合う人がいて、生きている間にこの戦争が終わったら結婚しようと約束している。いつになるかは分からないが、操はその人に立てている、と」
「そんな、人が」
「いたんだ。はっきりとは言わなかったが、俺と契約している間は結婚できないということは、何となく伝わってきた。つまり相手は、蜂の誰かだったんだろう。それがどういうことか、分かるか?」
「えっと……?」
「俺が彼女とその誰かを、引き裂いたということだ」
 自嘲するように、は、と息を漏らして笑った橘を見て、千歳はようやくその意味を理解して口許を覆った。蜂花の契約は、必ずしも軍が決めるわけではない。相性に問題がなく、双方が相手を希望していれば、基本的にはその希望が優先される。
 ――ねえ、ネリネ。ここの書き方なんだけど……
 千歳の脳裏に、ふと甦る光景があった。軍に提出する契約者募集の用紙を、二人で書いていたときのことだ。公的書類に慣れていなかった千歳は、書き方に迷う項目があって、ネリネの用紙を覗き込もうとした。
 ――ネリネ?
 そのとき、彼女は見たこともないほど頬を赤らめて、千歳の前から用紙を取り上げたのだ。
 あのときは驚いて、彼女に初めて拒絶されたような悲しい気持ちになって。動揺して、その後に貼った切手の金額も間違えた。今になって分かった。ネリネは、希望する相手の欄に名前を書く人がいたのだ。それを見られたと思って、あんなにも焦ったのだ。
 でも、その希望は叶わなかった。なぜなら彼女は、幸か不幸か、
「俺に適合できる、数少ない血液の持ち主だった」
「ええ……」
「ちょうどその頃、香綬支部は俺の適合者を躍起になって探していた。契約者を失って半年、戦場に出られなくなってすっかり隠居生活だったからだ。彼女に初めて会ったとき、大人っぽい目をしているな、と思った。あれは理不尽な偶然を受け入れて、恋人以外の男に身を尽くすと決めた、諦めの覚悟から滲んだものだったんだろうな」
 類稀な素質に恵まれた橘を、香綬は宝の持ち腐れにしておくわけにはいかなかった。一組の恋人の希望に目を背け、軍のため、国のために、ネリネを一輪の優秀な花として橘に宛がった。
 結果として彼女は――橘のせいではないが、橘の存在によって、恋人と引き離されたのだ。そのことを、誰にも言わずに笑顔で橘と接した。その苦しみは千歳には計り知れず、またそれを知ってしまった橘の苦しみも計り知れなかった。誰にも罪はない。強いて誰かを責めるとすれば、
「私が、切手を貼り間違えたりしなければ」
「千歳」
 橘の手が、千歳の口をやんわりと塞いだ。
「そうなっていたら、きっと……東黎はネリネに滅ぼされ、ネリネは罪の意識を抱えて、生きてはいられなかっただろう」
 ぐ、と言葉が喉の奥に詰まる。橘らしくもない、憶測ばかりで筋の通らない物言いだった。だからこそ、彼が千歳に自責の念を抱かせまいと、必死に頭を巡らせているのが伝わってきた。
 犬死するな、と言ったときと同じ。有無を言わせない目をしている。あのときも、この人はもしかして、必死だったのだろうか。
「俺は彼女に、何度も恋人の名前を訊いた。必ず一緒に逃がしてやる、裏切ったりしないから教えてくれと」
「少尉……」
「でも、彼女は……とうとう言わなかった。一緒に行くのを拒まれたら生きていく気持ちを失くしてしまうから、と言っていたが、それが本音だったのかどうかは分からない。もしかしたら、作戦が誰かに漏れたとき、恋人だけでも守れるようにしたかったのかもしれない。……思い出の場所がある。自分がいなくなったことが分かれば、きっとあの場所に来てくれる、と言っていた。彼女の意思は固くて、俺は名前を訊き出すことができないまま、出発の時間が来て馬車を見送った」


 香綬支部からネリネを逃がす計画は、一ヶ月後の夜を決行日と予定した。作戦通りなら、東黎はちょうど一ヶ月後に、西華の都市・青興(せいこう)を目指して兵を進めることが決まっていたからだ。
 その前に兵士の療養と物資の補給を兼ねて短い休みを取るので、橘も一度、香綬支部へ戻って契約者からの供給を受けるようにとの通達があった。おかげで誰に怪しまれることもなく、大手を振ってネリネの元へ帰れるチャンスがやってきたのだ。
 進軍前夜とあれば、支部全体も落ち着きがなくなっていることだろう。闇に紛れて門兵の目を盗み、ネリネを脱出させることくらい、支部の造りを知り尽くし、身体能力の卓抜な橘にとっては簡単なものだ。あとは蛻の空になったベッドを指して、自分が来たときにはすでにこの有様だったと嘆く、置いていかれた契約者の演技に全霊を注げばいい。
「失礼します」
 それまでの間は週に一度、支部へ血液が送られることに決まった。コートを脱いで袖を捲った橘の腕に、新入りと思しき衛生兵が、緊張した手つきで針を刺す。深紅の血がみるみるホルダーを満たしていった。これが通信兵の手に預けられ、点滴を通してネリネの体に入る――と、この衛生兵は思っている。
「ありがとう」
「えっ! い、いえ……全然」
 ふ、と思わず笑いをこぼしたら、少女は驚いて、せっかく採取した血液を落としそうになった。そんなに愛想がないだろうか、と自分の顔を思い出しながら、慌てて手渡されたそれを預かる。専用のケースに入れた二本の血液を持って、橘は近くにいた通信兵を呼び止めた。
「頼む」
「はっ、確かに」
 少年は受け取ったケースを、丁重な手つきで鞄に入れた。そしてこの先、香綬へ向かう途中にある川で、中身を一滴残らず捨てるのだ。
 橘の指示だった。恋人の元へ返す前に、せめてネリネの中にある自らの毒を抜こうと思ったのだ。
 花が体内に取り入れた毒を完全に浄化し、新しい契約者を受け入れられるようになるまでにかかる期間は、ちょうど約一ヶ月。自分の血を与え続けていたら、支部を出たとき、やっとの思いで再会した恋人とキスもできない。彼女をできるだけ自由な身にして、自分の手から離してやりたかった。
 そのために通信兵の一人と、香綬支部の看護婦一人に声をかけた。下に幼い兄弟を何人も抱えた身寄りのない少年と、酒癖の悪い夫を抱えていつも給与の前借をしている女性だ。たまにはこれで腹いっぱいの食事でもするといい、と言ったら、こちらが何も言わないうちから、お礼に何をいたしましょうと訊いてきた。


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