第八章 門井ネリネ・上


「門井ネリネと申します。今日からよろしくお願いいたします」
 真っ赤な明るい髪が、どこか快活で実年齢より少女然とした少女だった。ネリネ。なるほどその名の通りの色だな、と思ったのが最初の印象だ。けれど顔を上げてみれば、一目で実際より成熟していると分かる、知的な眼差しをしていた。
 今になって思えば、それは自分と初めて対面したときの、彼女の中にあった諦観とけじめによる大人っぽさだったのかもしれない。
「橘・F・カーティスだ。よろしく頼む」
 士官学校時代からの付き合いだった、最初の契約者を亡くして半年。両親の素質を足して割るのではなく、足したまま受け継いだ特異な体質のせいで、保管庫の血液という血液を、もはや性別も問わず片っ端から試しているのに結果は全滅。せっかく曹長まで昇ったが、このまま寝たきりになって戦線から消えるしか道はないのか。半ばそう諦めかけていたところに、彼女は突然現れた。
「お顔の色が優れませんね」
「ああ、これは――」
 血清剤のせいなんだ、と。元より無愛想に見られやすい自覚はあったので、せめてもの弁解をしようとした。新しい契約者に会いたくないわけでも、迎える気がないわけでもないのだが、如何せん大量の血清剤を服用しているせいで、頭がふらついて少しばかり気の利いた挨拶をすることもかなわなかった。
 見るからに若い、女学校を出たばかりの少女だ。こんないかにも死にかけの、寝間着姿で愛想もない男に引き合わされて、さぞかし心の中で軍に来たことを後悔しているだろうな、と橘は思った。
 だが、ネリネは迷いなく歩み寄ってくると、「失礼します」と両手で橘の頬を挟んで、背伸びをして顔を近づけた。
「お前、何を……っ」
「色々考えてきたのですけれど、お話は後で。こんな具合の悪そうなお姿を前に、挨拶もそこそこに、とか細かいことは言っていられませんわ。だから今は、」
 契約者の務めを、果たしましょう。
 唇の掠めるような距離でそう言った、ネリネの申し出の意味が分からないことはなかった。ただ、純粋に驚いてしまって、橘は唖然と立ち尽くしていた。
 ネリネはそんな橘に、ゆっくりと首を傾けて、
「……ごめんなさい、あの」
「あ、ああ。どうした」
「自分からするって、どうしたらいいか分からなくて。……して、くださらないかしら」
 青灰の眸の眦を、困ったように下げて言った。返事を、何かしたのかどうか、ろくに覚えてもいない。ただ貪るように口づけながら、頬に触れた手を聖母のそれのように清らかなものに感じた。
 それが、橘とネリネの出会いだった。

「どうかしら。少しは頼りがいのあるように見えます?」
 花繚軍の白制服をベースに、コートを体のラインにフィットする短さに仕立てて、下は動きやすくタイツとキュロットに。銀ボタンの装飾はそのまま、裾や袖に施された紺色のラインが、どことなく水兵の装いのようでもある。
 花繚軍後援部隊、金杉隊。ネリネが配属されたのは、数ある衛生兵を中心とした部隊の中でも、最も稼働率の高い優秀な部隊だった。新人でここに配属されるのは珍しい。隊長である金杉本人が指名して呼び入れたというから、尚のことだ。
「いいんじゃないか」
「見もしないで言うんですから」
「女学生には見えなくなったな。これでいいか?」
 姿見の前でくるくるとポーズを取っていたネリネが、鏡の中で嬉しそうに橘を見る。入隊初日、上官の数人から「医務室なら向こうだよ」と言われたのを気にしているのだ。どうやら坂下の、女学生アルバイトだと間違われたらしい。
 大人っぽく格好いい女に見せるために、と言って崩さずに着こんでいる制服が、お仕着せの入学式みたいで余計に初々しいのは黙っておくべきだろう。戦争で孤児になったが、以前はそれなりに大きな家の娘だったらしい。垣間見える生真面目な性質や、のびやかに見えて他者に気を配る性格が、確かにそうだったのだろうという片鱗として今も煌いていた。
「それ、制服でも着けるのか」
 ぱちん、と響いたかすかな音に顔を上げれば、華やかな赤髪に一匹の蝶が留まっていた。艶のある黒漆の、片側に朝露のような透明の石を垂らした髪留めだ。本物の鳳(あげは)蝶より一回り小さいが、翅の形は丁度、そんな感じの作りである。
 彼女は咎められたと思ったのか、ああ、と居心地悪そうに目を逸らして、
「やっぱり、いけません?」
「危険ではないが、落としても知らないぞ」
「そうですよね。どうしようかしら……」
 鏡の中で、耳の上に留めた蝶を不安げにいじった。
「外しておけばいいだろう。戦闘中の髪型なんて、誰も見ない」
「そうなんですけれど、お守りみたいなもので」
「お守り?」
「親友と色違いで買ったんです。女学校の卒業祝いに、ずっと一緒にいようって」
 思いがけない理由に、橘は読んでいた本をテーブルへ置いた。そうなのか。呟くように言うと、ネリネは何も気にしていない様子でええ、と答える。てっきり人目を意識しての装飾品だと決めてかかっていたことを、橘は少し思い改めた。同時に、その約束が今はどうなっているのか気になった。
「その親友は、どうしているんだ?」
「黎秦で仕事をして暮らしています。まだ契約者が見つかっていなくて」
「一人なのか」
「ええ。私と一緒に血液のサンプルを送ろうって言ったんですけれど、彼女、うっかり切手を貼り間違えてしまったみたいで。料金不足で返送されてきたのを、また急いで送り直したんですよ。元気でやっているかしら……」
 懐かしむような言葉の端に、心配が滲む。それが会いたい気持ちの裏返しだということは、相手を知らない橘にも伝わってきた。早く契約者が見つかるといい、と言いたいところだが、同じ支部に配属されるとも限らない。遠くの支部に離れてしまえば、二度と会えないことだってある。安易には何とも言えず、曖昧に首肯を返して、席を立った。
「橘さん?」
「貸してみろ」
 後ろに立った橘を鏡越しに見上げて、ネリネが驚いた顔で瞬きをする。髪留めをさらりと持ち上げて、橘は指先で、見た目よりも軽いそれの構造を確かめた。
「下にもう一本、目立たない色のピンでも留めるといい」
「えっ」
「それなら落ちないだろう。前線に出るわけでもないしな。心配なら、別のピンを留め金の穴にも通しておいたらいい」
 呆気に取られた表情で聞いていたネリネの頬に、ぱっと花が咲くような紅色が差した。眸の芯からじわじわと、その顔に微笑みが広がる。
「試してみます。ありがとうございます、橘さん」
 礼を言って、彼女は鏡の中から出てきたように橘へ向き直った。頬に手を滑らせると、すべて分かっている様子で目を閉じる。ネリネは自分から供給を求めることはなかったが、橘から少しでも求めれば、どんな小さなサインでも見落とさずに応えた。使命に従順で、蜂花という特殊な軍の中にあっても、常に場を和ませる笑顔を絶やさない。
 彼女はまさしく、花だったのだ。


「今思えば、もっと気にかけてやるべきだった」
 ぽつりと、夢から覚めたように橘が呟いた。ベッドの脇に寄せた丸椅子に腰かけたまま、千歳は林檎を剥く手を止めて、彼の顔を見た。


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