第七章 雨の中の死闘


 千歳はナーシサスに命じられて、橘が目を覚ますまで暇をもらっていた。そのほうが橘にとっても、千歳にとっても安全だろうとの判断だ。彼も契約者であったローズを亡くしたまま、自分はそれを感じさせず戦場に立ち続けているのに、部下には気を配る人である。申し訳ない、と思ったが、足を引っ張ってもいけないので言いつけに従った。
 ――弟切。
 飛び出していく橘の姿を、あのときから何度思い返したか。一人で考えても答えの出ないことを、堂々巡りで考え続けている。
 透き通る点滴の粒が管を一滴ずつ流れ始めたのを確かめて、千歳は空になったパックを手に、もう片方の手を着物の袷へ当てた。――ネリネ、貴方に会って訊けたら、何もかも分かることなのに……
「なんて……、無茶な頼みよね。あーあ」
 軍帽を脱ぐと、橘は少し幼くなる。無防備な寝顔をベッドに腰かけて覗き込み、千歳はかぶりを振って、食事を摂ってこようと立ち上がった。そうしてドアを開けたところで、思わぬ人と顔を合わせた。
「わ……っ、と」
「ケイ」
「ごめん、丁度ノックしようとして。ここにいたんだ」
 叩こうとしたドアが急に開いて驚いたようだったが、千歳と目が合うなり、ケイはすぐに手を下ろした。ええ、と頷いた千歳にやんわりと眸を和らげて、肩越しに部屋の奥へ視線を向ける。
「具合は?」
「相変わらずよ。でも、熱は下がったの」
「そうなんだ」
 ほっとした口調が言外に「よかったじゃん」と言っている気がして、千歳は曖昧に頷いた。今朝、見舞いに来た弟切も同じ声の調子をしていた。左腕を包帯で吊るして、彼は全治一ヶ月の予定だそうだ。
「先生からは、蜂としての能力が高いってことは生命力も高いはず。だからあとは本人次第だし、きっと大丈夫だって言われたわ」
「ん、そうだね」
「でも、こうも目が覚めないと、何だか変な感じで。……契約者だから傍にいるけど、花ってこういうとき、何もできないのね」
 管を伝い落ちる点滴の雫を見ながら、思ったのだ。もし橘と立場が逆で、自分が蜂だったなら、この中に数滴でも血を混ぜてやれば少しはその回復の役に立つかもしれないのに、と。血の気のない頬で横たわる橘を見て、何度となく今ならその首に手をかけられるという思いもよぎったが、同じくらい、自分がその状況を変えられないことにも無力感を覚えた。
 彼が弟切を庇うのを見た瞬間から、分からなくなってしまった。橘が本当に、千歳の思い描き続けてきた冷酷非道な性分なのかどうか。分からなくて、ぐるぐると一人で考え続けて、少し疲れた。
「そうだよ。花は受け取ることしかできない」
 苦笑した千歳を見て、何か切羽詰まったものを感じ取ったのだろう。ケイが淡々と、諭すように言った。
「そういうものなんだ。それ以外はいけない」
「ケイ?」
「千歳は十分よくやってるよ。あんたこそ、大丈夫?」
 言葉にかすかな引っかかりを覚えたのも束の間、質問を返されて千歳は瞬きをした。
「こんなに供給が断たれたの、久しぶりでしょ。体調悪くなったりしてない?」
「ああ……、そういうこと。まだ特に不調はないわ」
「ならいいけど。隊長が気にしてた、元気なら後で顔出しておきなよ」
 言われてようやく、そういえば色々と気を回してもらったのに、一度も自分からナーシサスに会いに行っていなかったと思い至る。ケイは軽く微笑みを浮かべて、励ますように肩を叩くと、千歳の横をすり抜けて部屋へ入った。お邪魔します、と眠ったままの部屋の主に声をかけて、傍へ歩み寄る。
「しばらくここにいるから、何か食べてきな」
「ケイ……」
「あんたまで倒れたら、僕が二人を見る羽目になるんだからさ」
 ほら行った、と追い払うように手を振るわれて、千歳は久しぶりに自分の口角が上がったのを感じた。

 昼食を終えた千歳が橘の部屋に戻ったのは、結局日の暮れ始めた頃だった。本当はすぐに戻るつもりだったのだが、ケイの「肌が死んでるよ」という歯に衣着せぬ指摘に押されて、自室のベッドで昼寝をさせてもらったのだ。昨夜、橘が医務室から自室での看護に移ったものだから、なんとなく人目の少ないのが心配で、傍でうとうとして夜を明かしてしまった。
 自分ではそれでも十分眠ったつもりでいたのだが、多分体より、精神的に疲れが溜まっていたのだろう。上官命令に甘えて少し眠るつもりが、目を覚ましたら三時間以上経っていて飛び起きた。
 ケイはといえば、千歳が置いていった小説を読み耽って時間を潰していたようだ。途中、巴も顔を出したという。これ面白いね、と興味を示した様子だったので、礼も兼ねて本は彼に貸した。どのみち、読んでも覚えていられないのだから、何の本でも構わないのだ。
 そろそろまた、点滴が空になる時間である。千歳は時計を見て、看護婦が置いていったトレーに手を伸ばした。本来なら彼女たちがやってくれる仕事だが、千歳がやり方を教えてほしいと頼んで任せてもらっている。些細なことでも、何かできることを見つけられると、花の無力を少しだけ忘れられた。
 最後の一滴が落ちるのを見届けて、パックを新しいものに付け替えたとき。
「……ん……」
 ふと、小さな声が静寂にこぼれた。思わず管から手を離して、真下に眠る橘の顔を見る。
「橘少尉?」
「……おま、え」
「少尉!」
 薄く、室内の明かりさえ眩しげに細められた目が、瞬きをした。乾いた唇から漏れた声に、千歳はええ、と枕元に手をついて顔を近づけた。琥珀色の眸が、眉間に苦しげな皺を寄せて、千歳を見つめ返す。
 ちゃり、と千歳の髪留めの雫が揺れた。瞬間、橘の唇が震えるように開いた。
「……ネリネ……?」
 千歳の黒水晶の眸が、こぼれそうに大きく見開かれた。それを見て、橘もはっとしたように目を開いた。
「橘少尉、」
「悪い。お前か……、ッ」
「あっ、だめ! 急に起きないで、傷が開いちゃう」
 がたん、と揺れた点滴台の音と背中に走った痛みとで、橘は自分がベッドにいたことに気づいたらしい。思わず支えた千歳の腕に助けられながら、ゆっくりと上体を起こして辺りを見回した。
「蛇神型との戦いで怪我をして、三日間眠ってたの。治療が済んだから、先生の指示で貴方の部屋に移したわ」
「ああ……」
「弟切兵長なら、無事よ」
 橘の背中から、どっと力が抜ける。千歳は、彼が目覚めたら一番に訊きたいだろうと思っていたことを端的に伝えた。そうか、という短い言葉の後に、長い安堵のため息が橘からこぼれた。心を落ち着けて、状況を整理するようにがしがしと前髪を崩した彼を見つめて、千歳はそっと椅子に腰を下ろした。
「どこか辛いところは? 眩暈とかしない?」
「問題なさそうだ。……立つには少し時間がかかりそうだが」
「動くのは、先生に診てもらってからにしたほうがいいと思うわ。点滴、外れちゃったわね。看護婦さんを呼んでくるから、これで押さえて」
「ああ、悪いな。……千歳」
「なに?」
「ずっとここにいたのか?」
 針が外れて、腕に滲んだ血にハンカチを当てる。橘の視線がサイドテーブルに置かれた本やカップに注がれているのを見て、千歳は肯定とも否定ともつかない、曖昧な微笑みで首をゆるく揺らした。
 立ち上がって、慣れた手つきで点滴の落ちるのを止め、落ちた布団を橘の脚にかけ直す。
「看護婦さんを呼んでくる」
「……ああ」
「……一つだけ、先に確かめてもいい?」
 空になった点滴のパックを持って、ドアに手をかけながら、千歳は訊いた。
「なんだ?」
 橘が怪訝そうに聞き返す。
 ビニールのパックを握る千歳の手は、かすかに震えていた。手だけではなく、足も、声も震えていた。目を合わせたら眸まで震えだしてしまう気がして、
「ネリネを殺したのは、貴方じゃないわね?」
 深く息を吸って一思いに問いかけ、振り返った。橘の琥珀色の目が大きく見開かれ、これまでに見たことのない表情で、ゆっくりと凍りついた。


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