第八章 門井ネリネ・上


 殺菌消毒の行き渡った真っ白なシーツに横たわって、橘は六月にしては晴れた午後の空を眺めている。まるでその奥に、一房の赤毛のひるがえるのが今も見えているみたいに。
「最初の印象が鮮烈だったからなのか、俺には無意識に、ネリネに対する安心と甘えがあった。安心と言ったら言葉が良すぎる。慢心とか、油断というべきものだ。こいつは大丈夫だろう、という、正体のない信頼だな」
「少尉……」
「それほどに、彼女はしっかりして見えた。慣れない環境にきたばかりで、色々と辛いこともあっただろうに、そんなそぶりは微塵も見せなかった。俺の契約者というだけで、下卑た冷やかしや無責任な期待もたくさん負っていただろう。それに対する辟易を、俺にぶつけてくることもなかった」
 けほ、と橘が小さな咳をしたので、千歳は傍にあった水差しを差し出した。起き上がろうとする彼を制して、林檎の香る手を貸して水を飲ませる。少し動いたからか、橘の眉間に細い皺が寄った。
「休むなら、カーテンを閉めましょうか?」
「いや、平気だ。とにかく、そうやって彼女の明るさを鵜呑みにしていた俺は、」
 点滴の粒が管を落ちる。痛み止めによる眠気や血清剤による倦怠感が襲っているはずだが、彼は一気に話してしまいたいようだった。昨夜、次に起きたときにすべてを話すと言った約束を、彼なりに果たそうとしているのだろう。千歳はそれならばと、黙って水差しを横に置いた。橘が日差しを遮るように、瞼へ手の甲を当てる。
「彼女を信頼していたが故に、その笑顔の偽りに気づけなかった」


 初夏に金杉隊へ入ったネリネの活躍は、順風満帆の一言に尽きるばかりだった。責任感が強く愛情深く、献身的で勇気がある。衛生兵になるために生まれた少女、という言葉が、半年もしないうちに彼女の周りを取り巻くようになった。
 人並みの失敗もしていないわけではなかったが、持ち前の気丈な笑顔で、経験不足による挫折は難なく乗り越えていった。そんな姿がまた健気に映ったのだろう。彼女は隊長の金杉からも常に目をかけられ、傍で仕事を学びながら助手のような雑務をこなすのが、いつしか日常になっていた。
「いいのかい? 君としては」
「何がです?」
「あれだよ」
 その師事ぶりは、いくらか低俗な噂話の対象にもなるほどで。あるときラウンジでシランが指を差した先にいたのは、私服姿で向かい合う金杉とネリネだった。白い花の柄を染め抜いた萌黄の着物に臙脂の袴を合わせたネリネと、ラフなセーター姿の金杉は、父と娘ほども年が離れている。だが父娘というには艶めいた眼差しを向け合っているというのが、自称観察眼に優れた噂好きたちの話す、もっぱらの真相だった。
 熱いコーヒーの香りを肺に回すように息を吸って、橘はそれを浅いため息に変え、淡々と答えた。
「前から思っていたのですが、シラン少尉」
「なんだい?」
「ここには娯楽がなさすぎるのではありませんか。もしくは、出動が足りずに体力を持て余している兵士が多すぎるのか」
 シランは一瞬きょとんとした表情を浮かべて、それから盛大に声を上げて笑った。その声に気づいたネリネが、橘を見つけて驚いたように目を瞠る。
「前半は同意するよ、坂下まで足を伸ばせば色々とあるけれど、なかなかね。後半は、今の僕たちが言うと本当にひどい嫌味だな」
 ええ、と吐き出すように笑って、橘はネリネから視線を外した。上官といるときは、上官との話に集中すべきだ。こちらのことは気にしなくていい。火を吹く西鬼に焦がされた袖を掲げて、シランはまだ少し笑っている。彼は時々、どういう風の吹き回しかは知らないが、戦闘の後に橘をラウンジへ誘うのだ。
「ただの師弟でしょう。金杉大尉のほうは、どうだか知りませんが」
 コーヒーを傾けて、橘は言った。娯楽の少ない閉鎖環境では、人間はほんのわずかな煌めくものを見つけては飛びつく。その煌めきが輝きであれ疵(きず)であれ、構わずに。ただ目に触れたものを片っ端から、話のタネにして膨らましているに過ぎないのだ。
「言い切るね」
「契約に影響が出かねないような関係を、あいつがそう簡単に受け入れるとは思えませんから」
 成程、とシランが頷いた。見ればネリネはもうすっかり、橘のことなど忘れたかのような顔で金杉の話に聞き入っている。視線の外し方ひとつで意図が通じ合うことさえも、この頃になると当たり前になって、別段驚いたりはしなかった。
 それくらい無意識に、橘はネリネを軍人としても契約者としても、一人の人間としても信用するようになってきていた。

「ラウンジではご挨拶もできなくて、すみません」
 その晩、ネリネが部屋へ来て開口一番、申し訳なさそうに言った。挨拶、と言われて一瞬なんのことだったか思い出しあぐねたが、橘はすぐにああと納得して、首を横に振った。
「気にするな。俺も気にしていない」
「よかった」
「お前は、気にしているのか? 俺たちが話していたことを」
 半分は鎌をかけたようなものだったのだが、ネリネは少し眉を下げて、曖昧な微笑みを浮かべた。聞こえていたというわけではないだろうから、自分とシランの雰囲気から、何か感じ取れるものがあったのだろう。噂や陰口の対象にされている気配というのは、離れていても不思議と分かるものだ。
「俺は、気がかりがあればお前に直接訊く」
「橘さん」
「訊いていないということは、何も気にしていないということだ。暇な連中のお喋りに、振り回される必要はない」
 ネリネの表情から、ほどけるように力が抜けた。はい、とたった一言の短い返事だったが、そこには色々な言葉が込められていたように聞こえた。それにしても、と橘は改めてネリネに向き直り、
「金杉大尉は、よほどお前を信頼しているようじゃないか」
「そう見えますか?」
「傍目に見てもそう思ったんだ、お前のほうがずっとはっきり感じているだろう。他の隊員の妬みを買わないようにだけ、気をつけておけよ。あの人を慕っている連中は少し、崇拝気質が目立つからな」
「肝に銘じておきます」
 忠告には肯定も否定もしなかったが、ネリネはそう言って笑った。それからふと、暗くなった窓の外を見やって、
「……光栄な話ですわ。でも……」
「ネリネ?」
「どうして私など、信じてくださるのかしら」
 囁くように呟かれたその言葉が、妙に耳へ残って、蜘蛛の巣に絡んだ虫のように鼓膜の上で震えた。
 無意識に口を開く。だが橘が何かを言うよりも、ネリネが借りていた本を棚に戻すべく背中を向けたのが早かった。
「まあ、これも面白そう! 橘さん、また借りていってもいいですか?」
 どの本を指しているのかもろくに見ないまま、橘は半ば上の空で了承の返事をした。女学校を出てから本を読む機会がなかったとかで、彼女はよく橘の本棚から、目についたものを持っていっていた。先日貸した本の感想を述べる声と先刻の声とが、とろみを持った水のように耳の奥で混ざり合う。


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