第七章 雨の中の死闘


 坂下の移転には、一カ月も時間を要さなかった。町全体が立体のパズルを成していた坂下は、香綬支部から徒歩十分ほどの、東黎軍が保有する土地に以前とほとんど変わらない姿で復旧を果たした。地理的には反対の方角に移動したので、実質〈坂上〉とでも言うべきなのだが、そこは馴染んだ名前のままで呼ばれている。
 桜の季節の終わりと共に、支部にいた人々もそれぞれの家へ引き揚げていった。日常を取り戻したような、広くなった支部を寂しく感じるような、どっちつかずの落ち着かない気持ちを抱えたまま皐月は過ぎる。入れ替わるように訪れた、雨と新緑の水無月。
「次。ナーシサス隊所属、薊千歳」
「はい」
「一等兵昇級、おめでとう。今日の気持ちを忘れず、今後も尽力したまえ」
 深く頭を下げて、千歳は雨宮支部長から新たなバッジを受け取った。銀色に輝く薔薇を模したそれは、これまでのものと違って、花の下に刺のある葉が一枚潜んでいる。
「おめでとう」
「ありがとう。……お陰様でね」
 ケイが上官を代表して、千歳の襟にそれをつけると、ナーシサス隊の面々から拍手が起こった。今年に入ってから花繚軍に入隊した者の中で、戦績の優秀な上位三十名を一等兵に昇格する。千歳は見事、その枠に選抜されたのだった。

「この度は本当におめでとうございます」
 すすき色の髪がなだらかな肩を伝って、せせらぎのように流れ落ちる。出会い頭に深々とされた、洗練された礼の所作に、千歳は思わず見惚れてしまって危うく押し黙るところだった。
「ありがとう、巴。でも大げさよ」
「なぜです?」
「まだ一等兵だもの。そんなに難しい昇格じゃないわ」
 昇級式でもらった祝いの品――金券と缶入りの菓子――を部屋に置いて、正装から袴に着替えて出てきたところで巴と顔を合わせた。実家の用事で一週間ほど支部を出ていたのだが、昨日無事に戻ってきたそうだ。ケイから聞いてはいたが、よもや二人の間で自分の昇級についても話されているとは思っていなかったので、思いがけない祝福に照れくさくなってしまった。
 それに実際、二等兵から一等兵への昇級は時間の問題だ。遅かれ早かれ、一年も経てばほとんどの二等兵は一等兵になる。たまたま、他より一歩早く駒を進めたというだけの話にすぎない。
 今日の昇級式を見て、自分も後に続くぞと意識を新たにした者も多くいるだろう。浮かれていたら、呆気なく追い抜かれてしまう。素直に両手を上げて喜びたい気持ちと、油断は禁物だという気持ちの間で揺れすぎて、振り子のように酔いそうだ。控えめに礼を言った千歳に並んで歩き出しながら、巴はそんな心境を察したように、くすりと笑った。
「橘少尉にご報告は?」
「一応したけど」
「あの方は、なんと?」
「階級が上がったからといって実力が上がるわけじゃない、無茶はするな、って。いつもそればっかりよ」
 愛想のない契約者の口調を真似て、腕を組んでじろりと巴に視線を投げる。まあ、と目を丸くして、彼女は口許に手を当てて笑った。巴がそういう仕草をするときは、本当におかしくて、声を上げて笑いたいときだけだ。
「そっくりですこと」
「ちょっと、やめて。自分でやっておいてなんだけど、似たくないわ」
「ケイにも見せてあげたい」
「しばらくネタにされそうじゃない……、というか、ケイも昇級だったわね。おめでとう」
 上等兵だったケイは、西華軍における諜報活動の成果が認められて、今日の式で兵長に昇格を果たした。部隊内でも彼の評価は高く、もっと上の階級を、という声も聞こえてくる。きっと兵長でいる期間は、あまり長くないだろう。
「ありがとうございます。これからもお世話になりますわ」
 謙遜も驕りもなく、淑やかに返されたお辞儀に、千歳はまたも見惚れそうになってううんと唸った。すっかり友人として接しているが、やはり端々に滲む物腰の美しさを見ると、本物のご令嬢だなあと感心せずにはいられない。実家から戻ったばかりだからか、肌も髪も色つやが良くて、今日の巴は特にそう思えた。
 しかしながら当の彼女はといえば、家庭の事情で特別に休暇を優遇されていることを心苦しく思っている。今日も休みだというのに医務室へ行って、一週間のあいだに記されたカルテを読んでくるそうだ。
「あ、それじゃあ私、こっちだから」
「はい。また今度、お茶でもご一緒しましょう」
 正面に目的の部屋が見えてきたところで、千歳は巴と手を振って別れた。階段を下りていく背中を見送って、初めて入るドアをノックする。返答はない。千歳は「失礼します」と声をかけつつ、第三資料室とプレートを下げたその部屋を開けた。
 途端、古い紙の匂いが鼻孔いっぱいに押し寄せてきて、くしゃみをひとつする。資料庫とは聞いていたものの、確かにこれは、と中を見回してみると、奥に目指す部屋の入り口が見えた。
「あった。本当に、部屋の中にある部屋なのね」
 呟く声に応える声はない。静かすぎると独り言を言いたくなるのは、この部屋の空気が濃密すぎて、なんとなく空恐ろしいからだろう。ぎっしりと収められたファイルの数々は、半分くらい、上部に赤い付箋が貼られている。故人だ。過去百年の蜂花のデータが集められているのだから、すでに彼岸の人も少なくはない。
 千歳が用のあるのは、書庫の奥の血液保管室だった。一年前に契約者を探して送った血液の、交換期限が間もなくなのだ。昨夜医務室で採取してもらって、昇級式が終わったので届けに来た。ケイや巴から話を聞いて、夜に一人で訪れるには不気味な部屋だという気がしたので、昼間に来たかったのである。
「うわ……」
 ボタンひとつで開く磨硝子のドアをくぐって、千歳は自分の予感が正しかったことを痛感した。細い硝子の容器に入った血液が、無機質な銀色のステンレスと白色のプラスチックで組み立てられた棚にずらりと並んでいる。鮮やかな赤、深い赤、濃い赤――一周回って美しいようにさえ見えてくるから不思議だ。
 千歳はその中から、事前に渡された管理番号のラベルと同じ番号を探して、棚の間を歩いた。幸い、棚にはそれぞれ何番から何番までのサンプルが収められているかシールで記してあったので、すべてのサンプルの間を闇雲に歩き回る必要はなかった。近くなってきた番号の棚で立ち止まって、容器を十本ごとに収めている白いケースの、汚れひとつない縁に貼られたラベルをひとつずつ確認していく。探していた番号が、千歳の目に飛び込んできた。
「あった。……あら?」
 そこに、千歳の血液サンプルはなかった。十個並んだ穴のうち、ひとつだけ空白があり、そこが千歳の名前と管理番号を記した置き場所だった。容器の代わりに、細長い札が立てられている。
〈持出中〉
 真っ白な紙に赤いインクで判を捺された、一枚の札だ。そういえば、ここにある血液は香綬勤務の研究者たちが実験のサンプルとして使うこともある。そんな話を最初に聞いた。
 あのときはなんの実験なのか、深く考えなかったが。千歳は他にも所々、同じ札を差されて持ち出されている血液があるのに気づいて、滴が水面に染み込むように、ひたりと、実験の意味を理解した。


- 25 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -