第六章 坂下の戦い


「遅かったな」
 煙草の先から火が消えたのを視認して、橘は千歳の側へ向かった。彼女が私室に橘を入れることを嫌がるので、供給には基本的に、千歳がこちらへ出向く約束になっている。
 始めはそんな口約束、ろくに果たされまいと思っていたのだが、前線に立って戦うと決めた以上、他人の荷物になるのは嫌なようだ。供給には事務的に応じ、毎日ほぼ決まった時間に顔を出した。それが昨日は夜半まで待っても現れず、今日は三十分を過ぎ、一時間を過ぎても来なかったので、さて今度はどうしたものかと面倒に思っていたのだが。
「……昨夜は」
 沈黙を破って、千歳が口を開いた。
「気がついたら、眠っていて。起きたら深夜だったから、来なかったわ」
「……そうか」
 それがまったくの嘘であるのは、目の下についた隈を見れば分かることだったが、あえて言及はしなかった。言い訳をするということは、訊かれたくないということだ。橘は煙草をポケットにしまった。留め方が甘かったのか、袖のカフスがひとつ外れていたことに気づいて、視線を落とす。
「一日くらい供給を怠ったところで、体調に支障はない。だが、戦闘には万全の態勢とは言えなくなる」
「ええ」
「まして昨日は、坂下の一件で俺もお前も消耗したはずだ。今後はお前が来なければこちらから出向くから、そのつもりでいろ」
「……ええ」
「……千歳。お前、話を」
 聞いているのか、と。釘を刺しかけた橘の襟を、ふいに伸びてきた千歳の手が力任せに引き寄せた。平時だったら咄嗟に身を躱しただろうが、意識の半分が思うように留まらないカフスにいっていたせいで、橘も反応が遅れた。見開いた目の中に、千歳の閉じた瞼が、まっすぐに線を伸ばす黒い睫毛が、飛び込んでくる。
 噛みつくように合わせられた唇から、はっ、と呼気が漏れた。
「おい、ちと……っ」
 普段は黙って、無感情に目を瞑って受け入れるだけの千歳の突発的な行動に、面食らって思考が固まってしまった。だが、どう考えてもまともな状態ではない。
 肩を押して引き離そうとした橘の手に気づいて、千歳は反発するように背伸びをし、口づけを深くした。驚くことに橘の唇を割り開いた小さな舌が、歯列の奥へと潜り込んでくる。互いの舌先がわずかに触れた途端、身を襲った歓喜の渦に、橘の脳髄が鈍器で殴られたように痺れた。
 生きる、という命題に直結する蜂花の接触は、時に噴き上がる間欠泉のような快楽を誘発する。生命が歓び、理性が本能の熱狂に呑まれそうになる。
「――――……ッ」
 声が飲み込まれ、彼女の口腔にくぐもりながら消えていく。技巧も何もない、勢い任せの口づけに眩暈を覚えるのが悔しかった。ガチッと歯がぶつかる音がして、互いの舌を噛みそうになる。それでもいい、というように、千歳はもっと深く、もっと深くと求め続けた。
 まるで何かをがむしゃらに探しているように。橘の中から、ありったけの力を吸い尽くそうとしているように。
 少し手伝おうと耳の後ろに差し入れた手を叩き落とされ、橘が舌打ちと共に、千歳の肩を力ずくで押しのけた。
「お前、何をむきになって――」
 その手首に、ぽたりと水滴の感触が落ちる。はっとして口を噤んだ橘が見れば、留め損ねたカフスの開いた場所に、温い水が表面張力を張って震えていた。水滴はあっという間に二つになり、三つになり、袖に染みを作り、繋がって張力を失い、肘へ流れていく。
 肩を掴まれて下を向いた千歳の眸から、牡丹雪のような大粒の涙が床に落ちて弾けた。
「ばかみたい」
 濡れた唇が、誰に言うでもなく掠れた声を紡ぐ。
「一人二人救ったくらいで、やり遂げた気になって。私、」
 その先は、嗚咽にかき消されて言葉にならなかった。ただ、あの人は死ななきゃいけない人じゃなかったのに。あの子は悲しまなきゃいけない人じゃなかったのに。そんな言葉が呪文のように、何度も何度も、跳ねたり途切れたりしながら繰り返しこぼれるばかりだった。
 胸の袷から、少し焼けた写真の角が覗いている。昨日、坂下で彼女と共に住民の親子を保護したと、昼間に受けた弟切からの報告が脳裏をよぎった。
「誰しも体は一つだ。その一つを使って誰も救えなかったか、誰かは救ったか。ゼロと一の違いは大きい」
「ふ……っ」
「それ以上のことは、お前のせいじゃない」
 こぼれる涙が粒を超えて、流れる水になっていく。それ以上見てはいけない気がして何となく部屋に視線を巡らせたが、何もない部屋では窓に映る画もまた、眉間に皺を寄せた自分と俯いた少女の姿だった。橘は浅いため息と共に、千歳の背中に手を当てて自分の胸に引き寄せた。窓に映っていた袴姿の少女が、幻のように消える。
 千歳はそれからしばらくの間、逃げも喚きもせず、無言で肩を震わせていた。


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