第七章 雨の中の死闘


 適合する血液を探し出しているのだ。今の契約者が、いなくなってしまったときのため。
 花も蜂も、戦争に参加している以上、いつ何時、誰が帰らぬ人となってしまってもおかしくはない。そうなったときのため、契約者がいても、他の候補者を見つけておくことは当然の発想だ。
 どんなに強い人だって、いついなくなるか分からない。いなくなってから次の契約者を探し始めたのでは、もう薬の効かない千歳など、間に合わずに死んでしまうかもしれない。だから、こうして軍が事前に探している。
「……ありがたいし、必要なことよね。そうよ、いつ何があるかなんて、分からないんだから……」
 契約者がスムーズに見つかれば、蜂花にとっては苦しむ時間が減る。軍にとっては貴重な兵士を失わずに済む。双方にとって良いことだと頭では分かっているのに、千歳は自分でも戸惑うくらい、衝撃を受けていた。
 橘だって、いついなくなるか分からないのだ。
 そうなったら自分は――どうするのだろう?
「……や、どうするも何も、やっと自由になるだけじゃない」
 ふと浮かんできた自問に首を振って、自答を返す。橘はいつかいなくなる、そんなの前から分かっていたことではないか。そのためにここまで、大人しくついてきたのだから。
 復讐の相手がいなくなった後のことを想像して、置いていかれたみたいな気になるなんて変な話だ。そもそも自由になったところで、自分ではきっと軍の追跡を逃れられない。囚人として捕らえられるに決まっている。将校を一人殺めるのだ。そんな花の最期など、自分で幕を引くのが早いか、軍が引鉄を引くのが早いかの差だろう。
 どちらも今さら儚むような命ではなかったっけ。
 千歳は馬鹿げた感傷を振り切るように一人笑って、サンプルを些か乱暴に指定の場所へ差した。代わりに引き抜いた札は、古いサンプルを戻しに来た職員が気づくだろうと思って、近くに置いておいた。


 降りしきる雨の中を、警報ベルの音がけたたましく鳴り響いている。時折響く雷鳴にかき消されないよう、最大級に張り上げた音量で。鼓膜がびりびりと震えるような音の只中で、西鬼がもたげた真っ白な首が、稲光に照らされて光った。
「風兵、いけ!」
 号令に従って、あちこちから風の刃がその身を切り裂く。純白の体に無数の傷が走って、こぼれた黒い灰が雨の中を舞った。
 西鬼・蛇神型――全長が三十メートルはあろうかという巨大な蛇だ。それが体をくねらせて、猛スピードで郊外を進んでいるという情報が入ったのが数十分前。どうやら香綬支部を通過して、そのまま東黎西部の市街地へ入るつもりだったようだが、迅速な出動によって直前で食い止めることに成功した。
 敵の数は一体。蛇行する動きが読みにくいが、表皮は柔らかく、攻撃も通りやすい。平時であったらさほど苦戦する相手ではなかっただろう。だが今回は、敵が天気を味方につけた。
 真っ白な体表は、隙間のない細かな鱗に覆われている。鱗は水を纏ってぬめりを帯び、激しさを増す雨の中で巨体の動きを滑らかにさせた。対するこちらは、いかに強化されたところで人間だ。衣服は水を吸収すれば重くなり、視界は悪く、足元は滑る。
 魔術も天気の影響を受けた。放った術が雨に当たって威力を削がれる上、火に至っては瞬く間に消えてしまうような雨脚の強さになったのだ。水は敵との相性が良すぎて、ろくな損傷を与えられない。
 火兵である千歳も、雨が弱まらない限りはできることがなく、風兵や土兵が立て続けに指示を受けるのをもどかしい思いで見守っていた。戦いの様子を見る限り、負けはしないだろう。だが、悪天候の中を身一つで動き回っている、前線の騎蜂軍の消耗は激しい。
「避けろ!」
 誰かが声を張り上げた。蛇神が尾の先を真横へ向けて持ち上げたのだ。次の瞬間には、水たまりを裂く音と共に、長い尾が薙ぎ払われる。飛沫が千歳たちのところまで飛んできて、コートや頬に泥を跳ねさせた。飛びのいたり、距離を取ったりしてどうにか避けた騎蜂兵たちを、休む間もなく反対側から返す尾が襲う。
「木兵!」
 弾き飛ばされた兵士たちを、辺りから伸びた木々が受け止めるが、それが西鬼の怒りに触れた。蛇神は真っ赤な舌をチロチロと震わせて引っ込めると、持ち上げていた首を叩きつけるように地面へ下ろし、突如として一帯を猛然と這い回ったのだ。
 一瞬の静けさの後に、叫び声と水のしぶく音が渾然一体となって辺りを包んだ。花繚軍が次々に騎蜂兵を助け出そうとし、騎蜂兵の多くがそれに救われて逃げるか、自力で場を離れるかに走った。鱗の滑りを利用して規則性もなく暴れ出した巨体を前に、まっとうに立ち向かったところで勝ち目はない。
「掴まるんだ!」
 ナーシサスが投げた蔓草のロープには、太い尾に囲まれて行き場を見失っていた兵士たちが次々と手を伸ばして、引き上げられた。その中には橘の姿もあって、千歳は後方から、彼が地面に降り立ってナーシサスに礼を言うのを見た。
 だが、そのときだった。
「弟切兵長は……?」
 橘の後に降りた兵士が、救い出された顔ぶれを見渡して不思議そうに言ったのだ。瞬間、橘の表情が凍った。まさか、というように彼が背後を振り返ったとき、鞭のように暴れる蛇体のあいだから、大きなカーキ色の飛沫がひとつ宙を舞った。
 その手を離れた剣が、弾き飛ばされてさらに高く舞う。
「――弟切!」
「カーティス少尉!」
 弾丸のように走り出した橘の足が、力強く地を蹴る。ナーシサスの手は橘の外套を掴んだが、留め具のふもとの布地が裂け、手には外套しか残らなかった。一分の迷いもなく、橘は跳躍し、軍刀を抜いた。
 すべての状況に思考が追いついて、千歳が息を呑めたのは、そのときになってようやくだった。
「橘――」
「橘少尉!」
 駆け出しそうになった千歳の前を、彼の部隊の隊員たちが血相を変えて飛び出していく。勢いに驚いて足が縺れ、彼らとの間が大きく開いた。転びかけた千歳の肩や腕を、傍にいた名も知らぬ人々が次々に支えてくれた。
 すべてがスローモーション映画でも見ているようだった。地面に叩きつけられた弟切が、蛇神の体に泥水を跳ねかける。その感触に動きを止めた蛇神の、石榴の両目が弟切を捉えた。獲物を見つけたようにチリ、と舌が覗いて、三角形の切り込みを持つ口が大きな菱形に開く。
 象牙色に光る牙が弟切に向かってまっすぐに下りた瞬間、橘がその間に滑り込み、弟切を自分の下に庇うようにして、軍刀を頭上に突き上げた。
 蛇神の口が閉じ、真っ白な鼻先に、ぱっと鮮血が飛び散る。辺りが一瞬、静寂に包まれた。
「――カティ兄さん!」
 ケイの叫び声と同時に、橘の体が、糸の切れた人形のように弟切の上に倒れた。背中に一直線の牙の痕があり、それがみるみる血で染まって見えなくなっていく。弟切の手が震えながら、自分を覆っているものの正体を確かめようとして、ぱたりと水たまりに落ちた。
 その手のひらに、黒い灰が落ちる。


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