第六章 坂下の戦い


 それからの千歳の日々は、がらりと姿を変えた。昼夜を問わず鳴り響くベルに叩き起こされては、弓矢を手に戦場へ駆けつける毎日。部隊には週に二日、交代制で休みが与えられていたが、そのうちの一日は合同訓練に費やされる。目覚めては戦い、泥のように眠り、研鑽し、食事を流し込み、また眠る。一週間が飛ぶように過ぎ、そんな一瞬の束でしかない一カ月もまたあっというまだ。
 気づけば春の足音に青銅門脇の梅の花がほろりと開き、建物に沿ってかき分けられていた雪は薄い氷に変わった。氷の下は小さな泡ができている。内側が解けて、水を湛えているのだ。
 弥生の初旬の風に髪を絡ませながら、そんな景色をしげしげと眺め、千歳はため息をこぼした。
「私って、自分で思ってたより不器用なのかもしれないわ」
「あら、どうしたんですか?」
「忙しさに目が回って、季節が変わったことにも気づかないなんて。黎秦にいた頃は、こんなことなかったんだけど」
 ひとつのことに集中するあまり、他のことが何も考えられなくなるなんて、子供みたいだ。呆れながら抱え直した紙袋が、腕の中で乾いた音を立てる。
 買い物に行ったのなんて、いつ以来だろう。黎秦で体調を崩す前だから、ほとんど一年ぶりということになるかもしれない。給金ならここへ来てから、工場にいた頃の何倍も支払われているのに、それを使いに出る余裕すらすっかりなくしていた。
 巴がくすくすと、片手で口許を押さえ、片手で同じ包みを抱えて笑う。
「新しい環境に慣れないうちは、誰しもそういうものではありませんか?」
「巴は優しいわよね」
「思ったままを言わせていただいただけです」
 白い包み紙に、青いスタンプ。香綬支部から少し離れた場所にある、小さな洋品店の包みだ。坂下を突っ切ってまっすぐ歩いたところに、個人宅のような趣でひっそりと店を構えている。
 いつまでも、ここへ来て最初に支給された真冬の寝間着を着て兵舎を歩いている千歳を見かねて、巴が買い物に行きませんかと誘ってくれたのだ。質のいい寝間着を扱っている店を知っていますので、と。そのときになって千歳はようやく、最近の寝苦しさの正体が季節外れの寝間着による暑さなのだと思い至った。
 一応、黎秦の長屋から持ってきた浴衣があるが、あれは本当に寒い。おまけに女学校時代の家庭科で作ったもので、つぎはぎだらけの襤褸だ。いっそこの機会に買い直すのもいいかもしれないと思い、部隊の休日が被る日を選んで、巴と買い物に出向いたのである。
 段構えにレースのついたネグリジェだの、シルクのパジャマだの、薄くたたまれた白や生成りの服がガラステーブルに品よく並んだ店で、見たことのない世界にどぎまぎして裏返りそうになる声をごまかすのに必死だった。巴は慣れた様子で春物のネグリジェを選び、よそ行きの棚でワンピースを一着買った。千歳も勧められたが、こんな品の良い服を着こなして出かけられる自信はなく、今回は寝間着だけに留めた。
 上下揃いの、薄いクリーム色をしたパジャマが一着と、踝丈の真っ白なネグリジェが一着。後者は場の空気に呑まれて、はずみで買ってしまったと自覚している。胸元に薔薇のレースが覗いた、たっぷりとした七分袖のネグリジェで――まるであの店の一部をそのまま持ち帰ったみたいな美しさだ。自分に似合うかどうかではなく、夢のような店の風景の一部を手元に残したくて、買ってしまった。きっと今夜、鏡の前でこっそり着てみるのだろうが、すぐにもう一着の実用的なパジャマに着替えるだろう。そんな未来が今から見える。
 こんな買い物をしたのなんて、初めての経験だ。ふふ、と笑いを漏らした千歳に、巴が首を傾げた。
「何でもないのよ。楽しかったなって思って」
 含ませた感情が多すぎると、却って言葉が短くなるのはどうしてだろう。もどかしいような、それもまた心に温かいような、上手く言い表せない心情で微笑んだ千歳に、巴も何かを感じ取ったようにはにかんだ。
「千歳さん、まだお時間ありますか?」
「ええ」
「でしたら、このあと――」
 ラウンジでお茶でも。そう動いた彼女の唇から出たはずの声は、轟音にかき消されて耳に届かなかった。淡い茶色の眸が、スローモーションのように見開かれる。巴の目にも、同じ顔をした千歳が映ったに違いなかった。
 ドン、と立て続けに爆音が上がる。今度は振り返った千歳の目に、はっきりと火柱が映った。
「襲撃……!」
「坂下の方角だわ。っていうか、まるで……」
 警報ベルが支部に鳴り響く。西鬼だ。姿を見るべく青銅門を駆け出した千歳は、煙の上がっている一角を見下ろして、信じられない思いで首を振った。
「坂下が、燃えてる」
 巴が声も上げられずに、引き攣った表情で炎を見つめる。建物を舐め尽くして広がる黒煙の中に目を凝らすと、逃げ惑う人々のあいだを、何かが凄まじいスピードで駆け回っていた。
「何かしら、ここからじゃよく見えないけど」
「西鬼でしょうか。なんだか野良犬のような……」
「――千歳!」
 真後ろから自分を呼ぶ声に、千歳は弾かれたように振り返った。通信兵のマークを入れた胸当てを垂らした馬を借りて、ケイが黒檀の弓を手に、こちらへ向かってくるのが見えた。
「ケイ、一体何が……」
「坂下が襲われてる。非番だけど、そんなこと言ってられない。出られる?」
「ええ」
 千歳は頷いて、弓に手を伸ばそうとした。ケイが逆に鞍の後ろを叩いて、乗るように指示する。
「犀川隊は? 何か聞いていませんか」
「支部に残って、坂下から運ばれてくる怪我人の手当て」
 ありがとうございます、と巴が包みを抱いて頭を下げた。その姿を見て、鐙に片足をかけていた千歳は我に返り、自分の抱えている荷物を巴に渡した。
「ごめん、あとで取りにいくから」
「ええ、お預かりいたします。お二人とも、気をつけて」
 巴が見送りの言葉をかけたとき、ちょうどナーシサスが青銅門を抜けた。通り過ぎざま「ケイ、薊くん!」と声を張り上げる。ケイの手が力いっぱい手綱を握った。馬の鬣がぴくりと震え、ブルル、と首が振るわれる。
「このまま行くよ、掴まってて。今更だけど、乗馬の経験は?」
「なくはないわ。苦手でもない」
 ならば良し、と言わんばかりにケイが横腹を蹴った。合図を受けた馬は蹄の音を高らかに、前方をゆくナーシサスに追いつかんとして走り出す。本来休日を充てられているせいか、部隊は半分ほどしかおらず、日頃は馬に乗っていない下級の兵士たちも、通信兵の馬を借りて跨っていた。
 坂下には香綬支部の関係者や、その家族が暮らしている。千歳は頬を切る風に長い髪を靡かせて、振り落とされないよう、ケイの背中に強く掴まった。

 坂下に着くと、戦闘はすでに始まっていた。先に到着した部隊がちらほら、砂塵と煙の中を駆け回っているのが見える。魔術の煌きが時々、辺りを一瞬晴らしたが、燃え続ける家屋から上がる煙でその晴れ間はすぐに口を閉じた。
「敵はケルベロス型だ。体格は犬とそれほど変わらないが、数が多い」
 馬を降りたナーシサスが、全員に命じる。
「固まっていては動きにくいだろう。他隊に倣い、部隊をここで一度解散する。敵を探し、発見次第応戦、住人を見つけたらすぐに保護して外へ連れ出すのだ。では、行け!」
 号令と共に、ナーシサス隊は雪の結晶のように方々へと散らばった。千歳も弓を手に、煙の隙間から見えた道を目がけて駆けだした。そこは板塀に挟まれた、長屋と長屋の連なる裏道のようだ。木の燻る匂いを吸い込まないように身を屈めつつ、細い一本道を駆け抜ける。


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