第五章 初陣


 見慣れた名札が月明かりに光る部屋の前で足を止めて、橘は静かにノックをした。
「開いているよ」
 中から親しみのこもった声が答える。失礼します、とドアを開ければ、奥の仕事机に腰かけて、ナーシサスが書類を片づけていた。
「やあ、カーティス少尉。今日は大変な一日だったね」
「ええ、まったくです。お力添えいただき、ありがとうございました」
 なんの、と青灰の眸を細めて、ナーシサスは微笑む。彼は橘にソファを勧め、書類を並べ直して脇へと置いた。
「ちょうど一息入れようと思っていたところでね。君がコーヒー派なのは知っているんだが、あいにくここには紅茶しか」
「お構いなく。仕事の邪魔をする気はありません、ただ一言……」
「そう言わず。律義な君のことだ、きっと来ると思って、ほら」
 橘の遠慮を押し切って、ナーシサスは応接用のテーブルへ足を進め、
「カップも二つ出しておいたんだ。ローズヒップでいいかね?」
 周到な用意に面食らって、橘は思わず、ふっと笑いをこぼした。それが了承の合図のようなものだった。上官に紅茶を出されるなど、普段の橘であれば考えられない行為である。どうもナーシサスを相手にすると、気が緩む――また、この上官はそういう関係の心地よさを好むのだ。
 同じ年齢になったとしても、同じ階級になったとしても、俺はこういう人間にはならないのだろうな。
 橘はふと、自分とナーシサスとのどう足掻いても真似できない違いを思った。人を緩ませ、心を開かせる。そういう技とは、無縁の性質だ。橘はナーシサスが、仕事を理由に訪ねてきた誰かを早々と追い返すところを見たことがない。誰に対しても歓迎の姿勢を見せ、紅茶を振舞ったり話をしたり、一定の時間を共に過ごす。その時間を、彼自身も仕事の合間の息抜きとして楽しむ。だからナーシサスには、いつ見ても苛々したところがない。
「うん、いい香りだ」
「申し訳ない。いただきます」
 差し出されたカップを受け取って、橘は鮮やかな赤色の水面に口をつけた。酸味のある独特の風味が、温かな湯気と共に広がっていく。寒さと疲労に強張っていた体が、ほっと解けるのが分かった。
 あまり個性の強い紅茶は得意ではないのだが、この部屋で出されるものはいつも気分を安らかにさせてくれる。きっといい品なのだろう。
「まさか、西鬼が空を飛ぶ日が来るとはね」
 ナーシサスがふうとため息をついて言った。
「ええ、本当に。あちらの技術も、日々進歩している」
「お手柄だったじゃないか。君の花は」
 カップを傾けていた橘が、あからさまに不機嫌な顔になった。眉間に刻まれた深い皺を見て、ナーシサスは面白い顔でも前にしているかのように笑う。
「笑い事じゃありませんよ。死ぬ気か――あの場で、俺を殺すのかと」
「どちらにせよ、喜べない事態だな」
「ええ。死ぬために戦いに出たのだとすれば見抜けなかった悔いが残りますし、俺が殺されれば西鬼が隊列に突っ込む。心臓が止まるかと思いました」
 ひじ掛けに頬杖をついて、橘は話しながら今日の戦闘を振り返っていた。窮奇型・改の正面に立って千歳が引いた弓は、彼女を見据えて爛爛と光っていた左の眼を射抜き、見事に足止めを果たした。戦線はその隙に再生され、橘が翼を斬って西鬼を地に落としたのもあって、戦いはあのあと比較的すぐに終わった。
 ちょうど先刻まで、本人とその話をしていたところだ。度胸は認める、能力も認める、だが無謀がすぎると。もっとも千歳から返ってきた言葉は、ああするしかできなかった、言われたことは守ったつもり、他に最善の方法があったと思うなら言ってよ、そんな相変わらずの反応だったのだが。
 まあそれでも――忠告を聞こうとする意識は持っていたあたり、打っておいた手は功を奏したと言ってもいいのではないだろうか。
「写真の件、ありがとうございました。大尉のお手を煩わせてすみません」
 ソファに腰かけたまま、橘が深く頭を下げる。
「なに、大したことはしていないよ。それに、彼女は私の隊員でもある。私にできることがあるのなら、するのは当然だ」
「お陰様で、少しはあの弾丸のような性格が抑えられたのではないかと」
「ははっ、弾丸か。確かに、お転婆という表現では愛らしすぎる危うさがある。しかし、君のほうこそ良かったのかね? カーティス少尉」
「何がです?」
「門井くんの写真だよ。あれは君が、もうずっと大切にしていたものじゃないか」
 青灰の眸が、心の底を覗き込むように橘を見つめる。細い月の光に照らされて、絵画のような陰影を落とすその顔をじっと見返して、橘はやがて、ふっと口許を緩めた。
「構いませんよ。命綱になるなら、写真くらい譲ります」
「そうか」
「それに、俺も元々は貴方からいただきました。それが今は俺よりも千歳に必要だと思ったから、貴方の手に戻して、彼女へ渡してもらった。それだけのことです」
 ナーシサスが納得したように、深く頷いた。本当はこのような個人的なことで上官を頼るのも躊躇われたのだが、自分が手渡したところで、千歳にとっては不本意極まりないだろう。余計な葛藤を負わせて注意が散漫にでもなられては、元も子もない。
 いかに考えを巡らせたところで、結局、ナーシサスが適任だったのだ。
「君は面倒見がいいな」
「まさか。ここまで手がかかる花は初めてで、正直扱いに困惑しています。かといって、手をかけねば一瞬で枯れ落ちかねない」
「花とは概ね、そんなものだ。……ほら」
 ナーシサスがすいと、花瓶に活けてある水仙に手を触れた。途端、美しく見えた一輪が崩れ去るように花弁を散らす。
「今朝、水を換えるのを忘れていてね。呆気ないものだよ」
 息を呑んだ橘に、彼は「砂糖はもういいのかね?」とシュガーポットを差し出した。


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