第六章 坂下の戦い


 ――坂下は、軍の関係施設であることが分かりにくくなるよう、わざと貧しい町のような造りにされている。
 ここへ来るまでの道のりで、ナーシサスが語った。軍の関係者ではあるが、蜂花軍ではない坂下の人々は、西鬼との戦闘能力など基本的に持っていない。支部の内側に住ませるには土地が足りない彼らを、少しでも敵の目から隠すため、貧民街の体を装った造りになっているのだ。木造の家屋は屋根も壁も、パズルのような組み立て式で、その気になれば三日で街を丸ごと引っ越させることができる。軍の施設であることが敵に知れた際、街ごと逃がすためだ。
 予想外の事実に、千歳は驚いた。同時に、嬉しかった。耐火煉瓦の壁に囲まれて蜂花だけが暮らすことを、心のどこかで看護婦や女給に申し訳なく思っていたから。坂下も、守られているのだ。自分たちとは違うやり方で。それが分かって、軍に対する一抹の反発心のようなものが、ふっと縄目を解かれて息がしやすくなった。
 建物が組み立て式に造られているということは、焼失部分以外は別の場所で、瞬く間に再建が可能ということでもある。できるだけ火の手を広げずに戦いたい。能力上、敵を見つけて戦闘するよりも、住人の避難を請け負ったほうが得策だ。
 ちょうどそう思ったとき、一軒の裏口から、男の子を抱き上げた女性が飛び出してきた。
「花繚軍の方……!」
「ええ」
 千歳は素早く彼女に駆け寄って、背負った風呂敷包みを引き受けた。安堵の表情を浮かべる母親の肩に頬を預けた子供は、ぐったりとして動かない。まさか、煙を吸ったか。焦った千歳に、若い母親が首を振った。
「この子、元々熱があって。それで今日、私も仕事を休んでいたんです。そうしたら急に……!」
「警報が鳴ったんですね?」
「はい。小型の西鬼が街に出たと聞いて、この子を抱いて一人で逃げられる自信がなくて、戸締りをして隠れ通そうと思ったんです。そうしたら、急に爆発が起こって」
「私、ついさっき着いたばかりなので、教えていただけて助かります。爆発は西鬼が引き起こしているの?」
「そのようです。窓から見ていたら、三つの頭のうちの一つが、手榴弾のようなものを咥えていました。前方に逃げてきた人を認めた途端、前足でピンを抜いて、自分もろとも」
「……恐ろしい話ね。西鬼って、恐怖の感情もないのかしら」
 そのときの光景を思い出したのか、子供を抱く腕に力を込めた彼女の背を、千歳は勇気づけるように強く撫でた。震えていた膝が少しずつ治まってきている。これなら多少、急がせても大丈夫そうだ。
「行きましょう。安全なところまで連れていくから」
 はい、と頷いて彼女は千歳と共に走り始めた。その前方に、煙の中から人ではない影が浮かび上がってくる。
「いるわね……、私から離れないで」
「はいっ」
「もし……」
「なんですか?」
「……いえ、何でもないわ。任せて」
 もし、私が勝てそうになかったら、隙をついて逃げて。千歳はその言葉を、ぐっと飲み込んだ。花繚軍の方、と言ったときと同じ、全幅の信頼を浮かべた視線を前に、思い留まったのだ。
 この人は、ナーシサスやケイや橘とは違う。同じ場所に勤めていても、仲間でも、対等ではなく私が守らなくてはならない存在なのだ、と。
「ひ……っ」
 バウッ、という犬の鳴き声と共に、千歳たちの存在に気づいた西鬼が煙の中から飛び出してきた。悲鳴を上げる彼女を背に庇って立ち、千歳は一瞬で敵の位置を見定めて、つがえた矢を放った。右の肩を矢が射貫き、三つの顔のうちの一つがキャンッと甲高い鳴き声を上げる。
 だが、足を止めるには至らない。
「はあっ!」
 当たれ! と念を込めて、千歳は立て続けに矢を射た。ただし、炎は巻かずに、ただの弓矢として。炎を使えば二、三の攻撃で倒せそうな相手だが、それをしてはこの細い道だ。間違いなく左右の板塀にも移ってしまうだろう。力の放出を細く抑えるのは、未だに得意とは言えない。進路を塞いでしまうのは得策ではないし、守れるはずの家屋に余計な火の手を上げるのも不本意だ。
 六本目の矢が胸を貫いたとき、西鬼がようやく倒れた。鼻先から霧散が始まり、左の顔が咥えていた手榴弾が地面に転がる。ピンを外す隙を与えず、爆発の圏内に近づかせず、攻撃の手を止めないことでどうにか一人で勝つことができた。
 そうほっとしたのも、束の間。
「きゃあっ!」
 真後ろから響いた悲鳴にはっとして振り返った瞬間、千歳は胸に衝撃を受けて、目の前が真っ暗になった。跳ね飛ばされた体が宙を舞い、無重力を味わった。実際、それほど遠くへ飛ばされたわけではなかっただろう。千歳の体は板塀に当たって、どさりと地面に崩れ落ちたのだから。
 腰から背骨まで衝撃が突き抜け、後頭部を強く打った痛みで目が眩む。仲間の声に引き寄せられて、後ろからも迫ってきていたなんて。任せてなんて言っておいて、情けないことこの上ないが、
「花繚兵さんっ!」
 ――逃げて。ぼやけた視界の中で、迫りくるケルベロスの爪の彼方に、若い母親の姿を認めてそう唇を動かしたとき。
 ざん、と白銀が視界を縦に一閃して、手榴弾が千歳の足にぶつかりながら、ころころと転げ落ちた。
「……ご無事ですか」
「……弟切さん」
 噎せ返るような葡萄の匂う霧の中に、見覚えのある青年が立っていた。元から燻したような茶色の髪が、煙を纏ってさらに曇り、物静かな眸を嵌め込んだ細い輪郭を縁取っている。
 彼が差し出した人形のような手の意図に気づいて、千歳は礼を言って片手を預け、立ち上がった。まだ頭がくらくらしている。弟切は千歳の様子をちらと見やって、
「この辺りはほぼ収束しました。残党が来る前に出ましょう」
 震える脚で立ち尽くしていた女性に、子供を預けるよう、剣を納めた腕を差し伸べた。
 来た道を足早に戻っていくと、先刻はあれほど濃く立ち込めていた煙が幾分か晴れてきているのが分かった。花繚軍の中で水を扱える者が、消火活動に当たっているようだ。表には脱出してきた坂下の人々も集まっており、怪我人を運ぶ担架や各長屋のまとめ役のような人が、慌ただしく動き回っている。
 と、その中の一人に向かって、女性がわき目もふらずに駆け出した。
「あんた!」
 弾かれたように顔を上げた男性の、青白い頬に、みるみる血の色が巡る。彼は彼女の名前を呼び、二人は力強く抱き合った。
「よかった。旦那さんも無事だったのね」
「そのようですね。……旦那様」
 互いに怪我のないのを確かめ合って離れた二人のもとへ、弟切が息子を連れて歩いてゆく。彼は子供を支部へ運んで寝かせるように勧め、二人は礼を言って、千歳にも頭を下げ、衛生兵に連れられて坂道を登り始めた。
 そのしっかりとした後ろ姿に、緊張の糸がどっと切れた。
「薊さん」
「ごめんなさい、大丈夫……ただちょっと」
 安心して、と。言おうと思ったのだ。守れた、生きていた、怪我をさせずに済んだ、家族に会わせてあげられた。それを目の当たりにして、全身の力が抜けるような安堵と達成感が千歳の中に生まれ、足元がふらついた。
 ――あと一秒、ナーシサスの声が響くのが遅かったなら。千歳はそれを口に出していただろう。


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