第五章 初陣


 水仙の花の香りが、風を遮るカーテンの内側で甘く揺られている。振り子時計の大きな針が、カチリ、と三時ちょうどを示した。
 同時に、砂時計の砂は一粒残らず下へ落ちきった。真鍮の細工に白い砂を入れた、洒落た砂時計である。固く太い、梁のような骨を巡らせた大きな手が、それを丁重に戸棚へ返した。今日の紅茶はローズヒップだ――独特の鮮やかな紅色をした水面が、千歳の前に差し出される。
「あの子は、にこやかでそつのない子でね」
 ギッ、と向かいの椅子を軋ませながら腰を下ろして、ナーシサスは話を続けた。水仙の香りとローズヒップの香りが混じり合う。彼の部屋はいつ来ても、芳醇が過ぎて酔いそうな空気で充満している。
「金杉隊という、今は昇進して黎秦の本部に行ってしまった少佐の率いる、優れた衛生兵の部隊に所属していたよ。門井一等兵――そう、生前の最終的な階級は一等兵だった。実力から言えば、もっと上を目指すこともできただろうけれどね。彼女はあくまで、生き残ることを最優先にして、その中でできることをしようという意思が固かったんだ」
 カーティス少尉を、前線に送り出し続けるために。
 君の選択を責めているわけではないよ、という意味を込めた微笑みと共に、ナーシサスはそう言って、懐かしむように目を細めた。訓練生を卒業した翌日、部隊への正式加入を報告しにナーシサスを訪ねた千歳に、彼は「少し座っていきなさい」と言って本棚へ手を伸ばした。
 見せてくれたのは、一冊のアルバムだ。香綬支部の日常ともいうべき、他愛無い光景が何枚も収められている。その中の一枚に、千歳の目は強く吸い寄せられた。たっぷりとした二重瞼の大きな眸、つんと小さな鼻、柔らかく引き結ばれて弧を描く唇。モノクロ写真の上からでもそのうねった髪の赤さを思い出せる、千歳の記憶の中そのままの、ネリネの姿があった。
 写真の下に「新兵はばたく」と書き残しがされている。それはナーシサスの手による文字で、ここに写っているのは皆、今日の千歳と同じ、訓練生を卒業した日の新兵たちだというのだ。
 報告に来た千歳を見て、かつて見かけたネリネの姿を思い出し、この写真を見せたいと思ったという。正面に上官の金杉でも立っているのか、まっすぐな眼差しで少し上を向いて写っているネリネの横顔は、今にもこちらを向いて「千歳!」と話しかけてきそうな鮮明さだった。
「よかったら、君にあげよう。薊くん」
 親友がここでどんなふうに生き、戦い、暮らしていたのか。普通の殉死ではない分、噂目的ではなく純粋に知れる機会は少ない。話を聞きながら食い入るように写真を見つめて、その見えない後ろ姿や戦場で動く姿まで想像を巡らせていると、紅茶を置いたナーシサスが言った。
 数秒の間を空けて、千歳はようやく言われたことに追いつき、自分がそんなに物欲しそうな顔をしていただろうかと慌ててかぶりを振った。
「そんな、いえ……せっかく大尉が撮ったものを、いただくわけには」
「無理をしなくてもいい、譲れない写真は譲るなどと言わないよ。逆の立場だったら、君も私に譲ってくれたのではないかね?」
 無論、それはそうしただろうが。本当にいいのだろうか。女学校時代は卒業アルバムなども残されてきたが、個々の顔など小豆くらいの集合写真であったし、卒業してからは工場勤めの質素な暮らしだったので、互いに写真を撮るような余裕などなかった。ネリネの顔をはっきりと捉えた一枚など、持っていない。
 欲しい気持ちと遠慮のあいだで葛藤する千歳に、ナーシサスはふっと笑った。
「私より、君のほうが大切にするさ」
 乾いた糊をゆっくりと、爪の先で剥がしていく。アルバムの台紙を少しだけ傷つけながら外されたネリネの写真を、彼は千歳の手に持たせた。
「ありがとうございます」
「感謝の気持ちは、今後の活躍で見せてくれたまえ。君が立派に生きてくれれば、門井くんもきっと喜ぶ」
 頼りにしているよ。軽い口調でそう言って、ナーシサスは紅茶を飲み干した。……いい茶葉だな、どこで手に入れたんだったか。首を捻って立ち上がり、仕事机の上に置いてあった缶を裏返す。ああ、と思い出したように頷いて、彼はそれを戸棚にしまった。紅茶の缶がぎっしりと詰まった戸棚だ。赤や青の表面に、金の蓋が眩しい。
 ポケットから鍵束を取り出して、一番小さな鍵で戸棚を施錠する。
 よほど高価なものなのかしら、それとも大切な小物入れに中身は何であれ鍵をかけたりする、あの感覚かしら。前者だと紅茶の良し悪しが分からない自分が振舞われたのが申し訳ないから、後者だといいなあ。千歳が漠然と思いながらカップを空にしたとき、ジリリリリ、とベルの音が廊下を突っ切った。
「早速か」
 ナーシサスの表情に、さっと険が差す。千歳の全身に緊張が走り、鼓動が俄かに速くなった。ソファに立てかけてあった弓を掴み、矢筒を背負う。初陣のときだ。外套をはおったナーシサスが、力づけるように背中を叩いた。
「外へ行っていなさい。私は他の隊長たちと落ち合ってから向かう」
「はい!」
「ケイと行動するといい。彼についていって、実戦の流れを学びたまえ」
 力強く頷いて、千歳はナーシサスの部屋を出た。廊下はすでに外へと向かう兵士たちで溢れていて、鳴りやまない警報と足音が響き渡っている。制服を纏った波に押されるように走りながら、その中にケイの姿を探して辺りを見回した。
「千歳!」
 声は探し人のほうからかかった。振り返ると、人波をかき分けてケイがこちらへ向かってくるところだった。後ろに巴もついてきている。彼女は千歳の姿を認めるなり、傍へ駆け寄ってきて言った。
「本日からご出陣だと伺いました。まだ手が万全でないでしょう。くれぐれもご無理はなさらずに」
「うん、ありがとう」
「集合場所、初めてでしょ? 一緒に行こう」
 礼を言って、千歳は二人の後に続いた。そのとき、ふわりと覚えのある煙草の香りがすれ違った。
「橘少尉」
 後ろ姿に向かって思わず声をかける。カーキに真紅の裏地を染め上げた外套をはおった橘は、隣にいる将校と口早に話し込んでいたが、千歳の声に気づいて弾かれたように振り向いた。
 琥珀色の目が一瞬、すう、と何かを見定めるように細められる。
「結果を急ぐな」
 橘はそれだけ言って、背中を向けた。最初から兵として成果を挙げることに躍起になって、無茶をするな――そんな意味だろう。左胸に手を当てて、千歳はその忠告を素直に刻んだ。図らずもそこには、内側にネリネの写真が入っていて、見えない護りを受けているような思いでいっぱいになる。
 ――そうよ、復讐を果たすにはこんなところで死ぬわけにいかない。
 犬死にするなと言った橘の言葉が、不覚にも彼女の笑顔と重なった。橘は契約者として言っただけだ。分かっているのに、彼の言葉がネリネの気持ちを代弁したような錯覚に陥ってしまい、慌てて首を振る。


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