第五章 初陣


「千歳さん」
「ごめんなさい、今行くわ」
 巴に促されて外へ出ながら、千歳は彼女の笑顔を忘れないように、強く瞼を伏せた。今はただ、自分にできることをするのみだ。感傷に侵されれば、足元を掬われる。そんな姿を橘に見られて、ほら見たことかと戦線部隊を外されては元も子もない。

「よかったのかい?」
 千歳が出口に消えていった後、橘と並んで歩いていた青年が、ちらと後ろを振り返って訊ねた。
「何がですか」
「彼女、君の契約者だろう。君を呼び止めていた。何か話すことがあるなら、隊には僕が伝えておくから、少し後から来ても……」
「シラン大尉」
 びくりと、青年のエメラルドの眸が強張った。金の睫毛に囲まれた眦の、重たげに垂れ下がった、溶けるように穏やかな顔立ちをした将校である。彼は自分を遮った橘の横顔を、手のひら一枚高い位置から窺うように見つめた。橘がわずかに顔を上げると、軍帽の影から、鋭く冴えた琥珀色の眸が覗いた。
「今は己の契約者ばかりを、気にかけていられるときではありません。隊員たちも皆、個々のことは後回しにして集合に従っている」
「しかし、あの子は確か今日が初の」
「それに」
 初の出動じゃなかったか、と尚も食い下がりかけたシランを、橘の声が制した。
「大型種との戦闘ならば、一番槍はいつもの通り、うちの隊でしょう。俺が遅れるわけにはいきません」
 有無を言わせない、この話は終わりだと斬り捨てるような口ぶりに、シランの足がもつれて止まった。構わず進んでいく後ろ姿を、畏れと憧憬、わずかな羨望が入り混じった眼差しで見つめて、ふっとその目が泣き笑いの形に歪められる。
「……そうだね、僕では君の代わりは務められない。失念していたよ。君はいつも正しい」
 僕と違って。
 その言葉が橘に聞こえたか否かは分からない。シランは右腕に縫い取られた大尉の蜂章をぐっと押さえて、その顔に平時の微笑みを取り戻した。実力の伴わないまま、親の威光によって与えられた階級など、何の意味があるだろう。橘といると、その無価値がとみに浮き彫りになって照らし出される。
 騎蜂軍の退役軍人を両親に持つサラブレッドでありながら、一人の花を殺害した罪に問われ、中尉の階級を剥奪されて二等兵に身を落とした元受刑者。それからわずか一年の間に、花を持たぬ身でありながら再び目覚ましい戦果を挙げて将校へと返り咲き、自らの率いていた部隊を取り戻した、香綬の軍神。
 蜂花という力がこの世にあっても、なくても、橘は生まれながらに東黎の剣となる才覚を持った軍人であっただろう。
 この上着を着るべきは、本当は君のような人間なのだ。分かっている、君だってそう思っていることだろう、と――シランは思ったが、それは互いに何の利益も生むまいと、喉元に引っかかった言葉を数度に分けて呑み込んだ。

 太い縞模様に覆われた前足が地面に下ろされるたび、木造の小さな家々はダンボールのジオラマのように壊れていく。柱か梁か、太い木材が爪楊枝のように真っ二つに折られるのを見て、辺りの兵士が恐れとも呆れともつかないため息を漏らした。
「窮奇型・改。前回の窮奇型より、一回り大きくなってるね。牙も爪もあんなに太い。噛まれたら、僕たちの体もあんなふうになるだろうな」
 香綬支部の西四キロ、住宅地に現れた西鬼を高台の丘から忌々しげに見下ろして、ケイが言う。確かに、ひとたまりもないだろう。一本の爪の太さが、木材とほとんど変わらない。
「左後ろ足の動きが、少しだけ悪いかな……? もしかしたら弱点になるかもしれない。大尉に報告してくるから、ここで待ってて」
 自前の双眼鏡を上着の下のポシェットに戻して、ケイは並んだ隊員の間を縫い、ナーシサスの元に向かっていった。住民はほとんど避難を済ませており、今は最後の一隊が逃げ遅れた人を探す見回りから戻ってくるのを待っている。騎蜂軍の女性部隊だ。丘の麓にはすでに他の騎蜂軍部隊がいくつか待機しており、花繚軍は彼らの後ろに、こうして隊ごとに並んで控えている。
 香綬支部は東黎軍が有する六つの支部の中で、最も西に位置する支部だ。つまり最も西華に近い、近年の激戦区を預かる支部である。新兵も常に補充されているが、熟練した兵も多い。警報が鳴ってから、がらりと変わった空気の中に身を投じて、千歳は自然と背筋が伸びる思いでその一員として立っていた。
 と、俄かに後方が騒がしくなり、カーキの制服を着た女性たちが足早に戻ってきた。
「避難完了、問題なし。間もなく戦闘を開始します」
「確認終了しました。戦闘準備をお願いします」
 周囲の兵士たちへ、口々に告げながら前へと向かっていく。彼女たちの声は伝言ゲームのように、さざなみとなって広がった。いよいよだ。弓を握りしめた千歳の横を、一人の女性が通りかかった。
「新米さん?」
「あっ、はい……!」
「深呼吸して、頭に酸素を回すのよ。一瞬の機転が命を助けるわ」
 淡い金色の髪を後ろで一つに結んだ、壮年の女性だ。呆気に取られた千歳の前で、深い緑の眸をゆっくりと伏せて、大きく息を吸ってみせる。
 慌てて同じように深呼吸をした。すうっと胸に広がる空気の新鮮さに、いつからか息を詰めていたことが分かって驚く。きっとそれに気づいて、声をかけてくれたのだ。
「あの、ありがとうございます」
「頑張って」
 礼を言うと、彼女はひらりと手を振って大股に歩き去っていった。見れば外套をはおっている。腕章の縫い取りから、中尉であることが窺えた。
「千歳、そろそろだって」
「ええ」
 戻ってきたケイが、隣に立つ。同時に前方の部隊が動き始め、千歳たちの上にも栗毛の馬に跨ったナーシサスの号令がかかった。
「前進!」
 部隊が一斉に歩み始める。遅れを取らないよう、左右の歩幅に合わせて大きく足を出しながら、千歳は何度も深呼吸を繰り返した。頭はやけに冴えていたが、それは極度の緊張状態からくる一種の神経過敏のようなもので、決して落ち着いているわけではないことは誰よりも分かっていた。
 かかれ、と前方で声が響く。戦闘が始まって、最初に切り込んでいったのは橘だった。
 彼は黒毛の馬を駆らせて西鬼に斜め後ろから迫り、軍刀を引き抜いてその左後ろ足を斬りつけた。ケイが指摘していた部分だ。もしかしたら、ナーシサスを通して橘に伝わったのだろうか。突然の痛みに大きく呻いて振り返った西鬼が、橘を認めて前足を振り上げる。だが後続の、彼の部隊の兵士たちの攻撃を受けて戸惑いを露わにした。
 橘はその隙に死角へ回って、馬を降りた。立派に躾けられた黒馬は、迷わず駆け出して丘のほうへと戻ってくる。
 合流した部隊に次々と攻撃を受け、西鬼が苛立ったように前足を持ち上げた。一撃ごとの手傷は浅いものだが、数十を超える人数に囲まれれば、虫の唸りも癇に障るというもの。仁王立ちになって怒りに満ちた目を爛爛とさせ、首をぐるりと巡らせながらの咆哮が、グオオ、と空を震わせた。
 その目が丘にも巡らされ、自分の上を通過していったとき、千歳の心臓はかつてない大きさで跳ね、流れる血液が冷たい石に変わった。


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