第四章 黒檀の大弓


 炎を右手から放つことで、つがえた矢に燃え移らせ、火矢として放つ。それなら的は自然と絞られるから、苦手なことに意識を集中させる必要がない。
 ケイの提案したこの方法は、千歳の能力を格段に扱いやすくさせた。千歳の炎は真っ赤な注連縄のように矢にとぐろを巻いて、弦の振動を利用して力強く飛んでいく。大弓は身の丈を超える長さから隠蔽性が低く、扱いも難しいとされるが、そのぶん威力は高い。西鬼の肉にも、十分食い込んでいける力だ。葡萄の匂いをさせる巨体に矢が旗印を刺せば、あとは炎が駆け上って追い打ちをかける。
 そんなわけで、千歳はこのところ、毎日の訓練に弓を持って行っているのだ。構えの感覚を忘れていなかったとは言っても、手のひらの硬さや筋肉はとうに失われている。に守られた右手は疲れて痛むだけだが、左手にはあっという間に肉刺が溢れ、寒さと乾燥も相まって常にピリピリした痛みを訴えていた。
 潰れた上から新たな肉刺ができ、ひどい色になった手のひらを見て、ケイが眉間に皺を寄せる。
「だいぶ痛いでしょ。医務室には行ってる?」
「消毒液だけ、もらってあるわ」
「自分で塗って済ませてるってこと? 無茶するね」
 だって、と片頬を膨らませて、千歳はそっぽを向く。医務室に行ったほうがいいことは分かっている。分かっているが、ここは軍の支部だ。医務室に足を踏み入れると、カーテンで仕切られたベッドのむこうにうっすらと見えるのは、皆寝たきりの怪我を負った兵士たちばかりで。
 ――どうしましたか。
 ――肉刺が痛くて。
 なんて、考えただけで場違いも甚だしい。この程度で世話になれるような雰囲気ではないな、と引き返してしまうのだ。
「そんなふうに入りづらさを感じさせてしまうなんて、わたくし共はまだまだ未熟ですわね」
「あっ、そういう意味じゃないの……!」
 隣から聞こえた申し訳なさそうな声に、千歳は巴が衛生兵だったことを思い出して、慌てて手を振った。平時の彼女たちは看護婦と共に、支部の医務室を預かっている。巴はその手をぱっと握って、自分の前に開かせた。
 すすき色の目が、叱るように千歳を見上げる。
「でも、いけませんよ。ちゃんと治療を受けてくださらないと、化膿したらもっと大変なんですから」
「は、はいっ」
「小さくても怪我は怪我です。ちょっと待ってくださいね」
 儚げな容姿に見合わず、看護婦らしい責任感の強さも持ち合わせた少女のようだ。有無を言わさない口調で命じられて、千歳は手を差し出したまま言われた通りに待機した。椅子の背中に置いていた丸い鞄を膝に抱えて、巴は慣れた様子で、中から包帯と消毒液を取り出す。
 ちらと見えたそこには、自分のものなどハンカチとちり紙くらいしか入っておらず――鋏に綿棒、脱脂綿、湿布、痛み止め、応急処置のための道具がきっちりと収められていた。
「沁みますか?」
「少し……」
「お薬が効いている証拠です。すぐに落ち着きますから、少しだけ我慢してくださいね」
 にこりと、清潔な寝具みたいに真っ白な微笑みを浮かべて、巴は言った。頷いた千歳の手のひらに、素早く包帯を巻いていく。大げさじゃない? なんて躊躇して問う暇もなかった。気がつけば端をテープで留められて、すっかり治療が完了していた。
「ありがとう。すごいわね、慣れてるの?」
「ちょうど一年くらい前から、勤めておりますわ」
 まだまだ新米ですけれど。謙遜ではなく、本心の謙虚さから巴は答えた。一年で新米か。そうだよな、という思いと先が長いな、という思いが混在して、千歳は何とも言えない心地で相槌を打った。
 ケイのひとつ下で一年前ということは、十六からここで働いているのか。子供の頃から契約していたというし、ケイを追って早めに入隊を決意したのかもしれない。そこまで考えて、あれ、と首を捻った。
「ケイの契約者……、なのよね?」
「ええ。どうかいたしましたか?」
「ということは、つまり蜂でしょう? 蜂なのに、衛生兵の部隊にいるの?」
 制服も行いも、巴は明らかに衛生兵だ。でも、本来衛生兵になるのは、花繚軍の後援部隊である。蜂の衛生兵など、聞いたことがない。戸惑っていると、巴が「それは」と口ごもった。
「空木財閥って知らない?」
 向かいで会話を眺めていたケイが、助け舟を出すように口を開く。その目が一瞬、巴を見て言っていいかと確認した。巴は断らなかった。
「黎秦の総合病院の隣に、別荘のある?」
「そう、その空木財閥。……の、本家の娘」
 時間が数秒、止まった気がした。次に口を開けることができたとき、千歳は「ええっ!」と叫んだ自分の声が、辺りを騒がせない大きさに堪えるので精いっぱいだった。
 空木財閥といったら、東黎で五本の指に入る名家ではないか。確か幽安に本邸があり、当代の主人には兄と妹、二人の子がいると聞くが。
「まさか、その妹って……」
「兄の名は、律と申します」
 間違いない、本物だ。頭に稲妻が走ったような衝撃で、目の前がくらりとした。育ちのよさそうな女の子だとは思った。でも、まさかそんな名家の出身だとは。これまで出会った中で、否、生涯に出会う中で随一のお嬢様ではないだろうか。動揺治まりきらぬ千歳に、だからね、とケイが続けた。
「剣を持って戦うなんてとんでもないって、お父上との約束で」
「なるほどねえ……」
「仕方ないんだ。本人の我儘じゃないから、分かってやって」
 勿論だ。千歳が迷わず頷いたのを見て、巴がほっとしたような表情を浮かべた。むしろ、軍に入るのを許されただけでも、すごいことなのではないかと思う。名家の事情など無縁ではあるが、ネリネが良いところの娘だったので、話の端々に良家の気苦労とでも言うべきものを感じたことはあった。
 空木財閥ともなれば、さらに何倍もの圧力を受けて育ってきたのだろうと思う。その檻を破ってまで、同じ支部に入って幼馴染を支え続けようとは――ケイは果報者だ。
「ん? というか、そんな巴と家が隣で、契約者って……」
「何?」
「ケイ、貴方ってまさか結構いい家のご子息だったりするの?」
 半ば確信を持った問いかけに、ケイは巴と目を見合わせた。そうしてとびきり、いたずらっぽく笑って、
「全然? 執事の息子だよ」
「えっ」
「結婚式ごっこってお嬢様にキスして、父さんに泣きながら殴られた。そのときからずっと、一緒にいるんだ」
 あんぐりと口を開けた千歳の前で、涼やかにコーヒーを飲み干した。

 千歳が訓練生を卒業したのは、それから三日後。睦月も終わりに差しかかる、きりりと澄んだ冬の日だった。


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