第三章 入隊


 複数の器に、ひとつの瓶から毒を分けたらどうなるか。答えはどうともならない。器ひとつあたりに注がれる毒の量は少なくなるが、中身の性質は変わらないから、何も問題は起きない。
 ではひとつの器に、複数の瓶から毒を注いだらどうなるか。
「答えは、異なる成分が反発や反応を起こして、中毒を引き起こす。最悪の場合、死に至ることもある。絶対にやってはいけないよ」
 もちろん、知っているだろうけれどね。念のために、と付け加えて、ナーシサスは少し温くなった紅茶のカップを傾けた。上質なダージリンの香りが、水仙の香りと混ざり合って室内に広がっている。甘い、麻酔を嗅いでいるみたいだと千歳は思った。
 同じ紅茶が、千歳の前にもある。おそらく、人生で味わってきた中で最も高価な一杯だ。昨日、西鬼の襲来で切り上げてしまった話の続きをしようと、今日改めて彼の部屋に呼び出されたのだ。入ってきてすぐに、ナーシサスは紅茶を淹れた。昨日の橘に倣って断ろうとしたが、自分が飲みたいからそのついでだと上手く言い包められてしまって、大尉自ら注いでくれた紅茶をご馳走になっている。
 器は花、毒は蜂である。花は蜂の毒を養分として生きているが、複数の蜂から毒をもらう行為は非常に危険だ。体内で毒が混じり合い、命を脅かす。ゆえに、契約の相手は一人に限られる。
「でも、蜂は何人の花と契約しても大丈夫なんですよね」
「ああ、そういうことだ」
 ナーシサスが紅茶に砂糖を追加しながら、大きく頷いた。物分かりのいい生徒を褒める、先生みたいな表情だ。女学校でも、それより前にいた施設でも、これは蜂花の基本中の基本として習ったから知っている。
 蜂は契約者の数に制限もないし、切りたいときに契約を切ることができる。でも花はそういかない。契約者は一人だし、契約が切れるのは相手の蜂が死んだときだ。もしくは、契約者からの供給が一カ月以上断たれたとき。体内の毒がほとんどなくなって、別の人との再契約が可能になる。
 でも、なんだか考えれば考えるほど、
「不公平だわ」
 紅茶を飲み干して呟いた千歳に、ナーシサスが苦笑を漏らした。頭の中で思ったつもりが、ついうっかり口に出てしまった。慌てる千歳を、ナーシサスが「構わないよ」と制する。
 昔から、こればかりは蜂のほうが羨ましいと思う部分だ。契約者と気が合わなかったとき、蜂は何のリスクもなく次の契約者を探しにゆけるのに、花は違う。供給のなくなった一カ月間、どうにか体を持ちこたえさせて、それからでないと次の相手を探せない。
 一カ月の間に限界を迎えるかもしれない、命の危険を伴う。そこまでいかなくとも、確実に衰弱はする。花が契約者を変えるのは、結構な覚悟のいるものなのだ。これを不公平と言わずして、何と呼べるだろう。
「君はあまり、蜂にいい印象を持っていないようだね」
 ナーシサスの言葉に、千歳はどきりとして顔を上げた。青灰の双眸は、見つめられると心の底まで透かされるような、不思議な透明感に溢れている。蜜を湛えた花とは、こんな目を持つようになるのか、と千歳は固唾を飲んだ。
 嘘がつけなくさせる目だ。ソファに背中を預けて、小さく首肯する。
「すみません」
「いや、いいんだよ。誰にだって、自由な考えを持つ権利がある。ただ、私は君の上官だからね。今後、君をどこかへ配属させたり、作戦に協力したりしてもらうにあたって、少しでもその考えを知っておきたいとは思う。理由を教えてはくれないかね?」
 もし「嫌だ」と拒めば、この人はそれも一つの自由として尊重してくれるだろう。千歳はそう直感的に察していたが、だからこそ、頭ごなしに拒む気にはなれなかった。人間は強制されるよりも、自由を与えられると求められた方向に動いてみたくなるものだ。
 ナーシサスがそんな人の心理を、よく理解した上で言っていることは明白だ。それでも彼の問い方には、どんな答えでも受け入れてくれそうだから、答えてみようかなと思わせる穏やかさがあった。
「私は女学生の頃、門井ネリネという女の子の親友だったんです」
 名前を聞いた途端、ナーシサスの目が大きく見開かれた。ああこの人は彼女を覚えているのだなと、千歳は少し強張っていた心が癒された。ネリネのことを覚えている人に出会うのは、彼女が生きた証を目の当たりにしているようで、ほっとする。どうでもよいことのように、あっさり忘れてほしくないのだ。
「それは……因果なものだな」
 ナーシサスが手のひらで顔を覆った。千歳は黙って、空になったカップを膝にのせたまま頷いた。
「とても――とても嘆かわしい出来事だった。彼女のことは。私から言えるのは、それだけだが」
「はい。何も言っていただかなくていいんです。ただ、私が蜂に抱いている印象は、十分わかっていただけたかと思います」
「ああ、よく分かったとも。だがしかし、それでよく契約を……カーティス少尉との契約を結んでくれたね」
 千歳はどきりとして、カップをいじっていた手を止めた。ナーシサスの目を見たら、また嘘がつけなくなってしまう気がして、健気な覚悟を決めた娘のように、うつむいたままで返事をした。
「東黎のためですから」
 まさか、いつか仇を討つためについてきたとは、さすがに言えない。死ぬのが怖くて、というのも言いたくはない。ナーシサスは千歳の心意気に感じ入ったかのように、深々と頷いた。若干の罪悪感が、胸を締めつける。
 ……ネリネのことを、言わなければよかったわ。そうすればこんないい子を演じることもなかったのよ。
 後悔したが、もう遅い。ナーシサスは目頭を指で押さえて、もう一度、噛み締めるように深く頷いた。
「その心に行き着くまでに、君が辿ったすべての道を称賛しよう。君が東黎のために立ち上がることを、門井くんもきっと喜んでくれるだろう」
「ありがとうございます、大尉」
「礼を言うのはこちらだ、薊くん。君のような新人を迎えられたことに、感謝するよ。その意思に報いるためにも、配属先をよく考えなくてはな。ええと、後援部隊の一覧は……」
「あの、すみません。その部隊についてなんですけれど」
 テーブルの片側に置いてあった分厚いファイルを広げたナーシサスを見て、千歳は思い切って話を遮った。後援部隊、と書かれたページを開いたままで、ナーシサスが顔を上げる。
「昨日お聞きしたことの中で、疑問があって。女が基本的に後援部隊で、戦線部隊に入れないというのはなぜですか?」
 西鬼の出現で慌ただしく部屋を出る直前の話だったから、詳しく訊くことができなかったのだが。昨日からずっと頭に引っかかっていたのだ。
 蜂であれば、いかに常人離れした身体能力と言えど、やはり武器が肉体である以上、男女の差は生まれる。一般人の男性よりは遥かに強いが、蜂同士で比べれば、やはり女性のほうが非力だ。
 だから、蜂の部隊が男女を分けて構成されていて、基本的には男性部隊が前に立って戦うというのは理解できる。しかし、花の強さは筋力や体力に左右されるものではない。魔術の力で戦うのだから、そこに男女を分ける理由はないはずだ。
 ナーシサスは千歳の言い分を察したように、ああ、と頷いて口を開いた。


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