第二章 香綬支部


「弟切」
「橘少尉? こんな時間に、どうされましたか」
 角灯を片手に、現れたのは弟切だった。見知った顔に、何となく拍子抜けしたような気分になる。壁の内側は支部の兵士しかいないというのに、分かっていても夜更けに誰かの気配を感じると、妙に警戒してしまうのが人間というものだ。橘は資料を目で示して、ちょっと調べ物をな、と答えた。
「お前こそ、血液保管室なんかに何の用だ?」
 磨硝子の扉の向こうは、蜂花の血液が保管されている部屋だ。現役の軍人の他、契約者を探すために国内各地から提出されたサンプルもあって、傷まないよう常に一定の暗さと寒さを保たれた室内には、細い硝子瓶に入った真っ赤な血がずらりと並んでいる。夜分に進んで来たいと思うような場所ではあるまい。弟切はええ、と頷いて、
「廊下でナーシサス大尉に行き合ったのです。お忙しそうだったので、使いを承りました」
「使い?」
「提出している血液のサンプルが古くなったので、新しいものと交換しに」
 ああ、と橘は納得した。サンプルは年に一度、新鮮なものに換える。花も蜂も、戦場にある以上いつ契約者を失くすか分からない。そのとき、迅速に次の契約者を探せるよう、常に傷みのないものを補充しているのだ。
「その資料……」
 前を横切って出ていこうとした弟切の目が、橘の手にある資料に止まった。正確にはその資料の右上に記された、名前に、だ。
「千歳のものだ」
「何か、彼女に気がかりな部分でも?」
「いや、これまでの経歴を、やはり見ておいたほうがよかったかと思ってな。黎秦へ行く前に見ればよかったんだが、必要ないと思って見なかった」
 千歳がネリネの知り合いでなかったら、今も必要はなかっただろう。必要なことはその都度訊けばいいし、彼女だって橘に答えを渋る理由はなかった。だが何の因果か、彼女はネリネを知っている。あれほどまっすぐに憎しみを向けてきた千歳が、素直に自分のことを語るはずもない。
「契約者の過去には、それほどご興味がありませんか」
「そうだな、必要を感じたから見に来たが、正直に言ってない。重要なのは経歴よりも、相互の相性だ」
「少尉らしい」
 橘の意見に、弟切は賛同することも対立することもなく答えた。暗に、ああ彼は違うのだな、とは感じたが、橘もそれを悪くは思わなかった。本心の伴わない同調や、上の立場の人間を持ち上げるだけの誉め言葉は、橘が最も嫌厭するものの一つである。
 弟切はそういう浮ついたところがない。かといって橘に意見するような血気溢れる青年でもないが、粛然とした佇まいの中に、どんなときも己の意思を持っている。命令に忠実だが、無暗やたらに靡かない。戦場における彼の能力と同じくらい、信用に値する性質だ。
「窮奇との戦いで疲れただろう。明日も何があるか、分からないからな。用が済んだなら、早めに休むといい」
「お気遣いありがとうございます。橘少尉も、あまり遅くまで無理をなさいませんよう」
 おやすみなさい、と一礼して、弟切は資料室を出ていった。腕時計の針は間もなく、十一時を指そうとしている。もう一度、ざっと目を通したら終わりにしよう。橘はページを一枚戻して、資料に視線を流した。


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