外伝 土塊に咲く花


 その花が咲くのはいつも、春と呼ぶには肌寒い、名ばかりの春の頃だ。
「――私と契約をしてください」

***

 その日、窓には長い氷柱が二、三垂れ下がっており、夜明け前から朝にかけてぽたんぽたんと、解けた滴が外に立てかけられた塗炭板を鳴らした。塗炭板の裏側には空気の抜けかけたボールが転がっており、その脇には白線を引く石灰の入ったラインカーが置かれている。
 兵士たちが遊ぶ、賑々しいサッカーの道具だ。庭に線を引いてゴールを作り、蜂が入れたら一点、花が入れたら三点。朝から夕まで代わる代わる、飽きることなく繰り返される。昨日の試合は赤のチームが勝ち。その前の試合は白のチームが勝ち。
 飽きることなく、窓からずっと、それを眺めて一日を暮らしている。カチャ、と響いた鍵の音に、弟切は顔を上げた。
「調子はどうだね」
「……、これは」
 数日ぶりに見た来訪者に、腰かけていたベッドから立ち上がり、一礼する。犀川はそれを見て部屋へ踏み入ると、
「入りなさい」
 後ろを振り返って、手の先で招く仕草をした。
 誰か、面会の希望者でも現れたのだろうか? 弟切はふっと息をついて、腹を括った。
 寧淳での戦いから間もなく四ヶ月、弟切は兵舎にある自室での軟禁生活を送っている。階級を剥奪され、必要最低限以外での外出を禁じられて。水の一杯すら、自由に飲みにいくことはままならない。だが敵国への寝返りの罪に対する罰としては、破格の待遇だ。ほんの一ヶ月前までは、地下牢にいた。あそこで四肢を繋がれて、てっきりそのまま飢えて死ぬものと覚悟していたが、二人の友人の奔走により、またこうして地上へと掬い上げられた。
 その二人――橘・F・カーティスと薊千歳――以外に、許可なくこの部屋を訪ねることが許されているのは、終戦時点で大佐以上の階級を保有しており、現在も同等かそれ以上の地位を持つ者のみだ。それと、首都黎秦から派遣されてくる、事情聴取のための調査隊。
 その他の者は面会を希望する場合、監視役である犀川に許可を取った上で、彼に連れられてやってくる。地下から戻って一週間の間に、百人近い面会者がやってきた。多くが新王都支部での戦いや寧淳の戦いで、家族や友人、契約者を亡くした人であり、彼らが向ける感情のほとんどは、剥き出しの怒りと憎しみ、悲しみだった。
 日が経つにつれて、訪問の数も目に見えて減っているが――癒えない敵意と向かい合うことも、生きて残った宿命だ。到底償いきれるものでなくとも、受け止めるより他にできることはない。どんな言葉にも弁明をせず、例えそれが事実とかけ離れていようとも。弟切がそうして、今回も覚悟を決めて、面会者のために椅子を引いたときだった。
「失礼いたします」
 かすかに震えた声が、犀川の後ろでそう言った。決して高くはない犀川の肩の向こうに、すっぽりと隠れていた小柄な少女が、顔を覗かせた。
「鞍笠すみれと申します」
 鞍笠――弟切はその名前を、頭の中でできるだけ速く探した。誰の遺族か、妻か妹か。思い当たる兵士を想像しようとしたのだ。だが鞍笠という名前は、弟切の記憶の中には一人も存在しなかった。
 分からない、ということが一番自責の念を深める。弟切は深くお辞儀をして、彼女に腰かけるよう、椅子を示した。
「では、私は席を外す」
「え?」
「話が済んだら、ラウンジに来なさい」
 犀川の言葉に、驚いたのは弟切だけだった。すみれはきっちりと着物の前身頃で手を合わせてお辞儀をすると、初めから知っていたかのように、犀川を見送った。犀川はドアを引いて、振り返らずに廊下へと出ていく。
 後には呆気に取られた弟切と、そのドアが閉まるまで後ろ姿に頭を下げている少女だけが残った。
(なぜ……)
 これまで――どんな面会のときにも、犀川は部屋の隅に待機していた。怒りを浴びせかけられるときにも、これが東黎の裏切り者かと好奇の目で舐められるときにも、真実を聞かせてほしいという懇願に応えるときにも、常に。それは弟切という男が、世間的には「何をしでかすか分からない犯罪者」であり、密室で二人きりにされることが少なからず恐ろしい相手だからだ。同時に、背負いきれない憎しみを買っている。弟切を殺そうと企む者があったとしても、何らおかしくはない。
 犀川はその双方を護るために、面会の場からは決して席を外さなかったのだ。だが、今回は。
「あの」
 どういうつもりだ、と困惑したとき、目の奥だけで密かに変わる弟切の表情を見つめていたすみれが、噤んでいた口を開いた。
「突然お伺いして、申し訳ありません」
「ああ、いえ……おかけください」
「っ、はい」
 ガタン、という椅子を引く音に、すみれの肩が大袈裟に跳ねた。やはり自分のような者と二人きりにされるのは、不安なのではないだろうか。まして彼女のような、非力な少女にとっては――おずおずと腰かけて、重そうに椅子を掴んだ手に、彼女が蜂ではないことを見抜いて、弟切は気づかれないようにそっと椅子を押してやった。
 海松色のベロアの敷かれた椅子に腰を落ち着けた少女は、それでも尚そわそわと落ち着かないように見える。本来であれば、罪を咎められる立場の自分は彼女と対等に座るべきではないのだが、弟切はすみれが話し出せる状況を作るため、あえて向かいに椅子を引いて腰を下ろした。
「あの」
 意を決したように、すみれがもう一度口を開く。
「私と、契約をしてください」
 そうして続いた言葉に、弟切は彼女を見つめていた目を、数秒あってから大きく瞬かせた。
「契約……、ですか?」
 鸚鵡返しになった言葉に、彼女は唇を引き結んで、深く頷いた。薄墨色の、死者へ送る弔辞の墨のような目をしていた。髪も柔らかい、褪せた茶色で、どこか薄幸な気配の絶えない、若い未亡人のような女だった。だがその握りしめた手や、震える頬に巡る血の色は、
「私をあなたの命にしてほしいのです」
 初めての恋をした少女、その漲る息吹、そのもののようだった。
 覚えのある頬の赤さ、眸の輝き、声の昂り。弟切は当惑して、何も答えられなかった。まさかもう一度、自分をこんなふうに見つめる女性が現れるとは、思ってもみなかった。ましてこの、軟禁の身の自分を、だ。
「……それは、できませんね」
「っ、どうして……とお訊きしても?」
「貴女が無辜の人だからです」
 何かの間違いとしか思えなかった。だが弟切はすぐに平静を取り戻すと、微笑んで、すっぱりと答えた。無辜の人。その言い回しが、耳慣れなかったのだろう。弟切と同い年くらいかと思われるが、緊張しきった振舞いにどこかあどけなさの残る少女は、困ったように口の中で繰り返して、首を傾げた。
「罪なき人という意味です。私のような者と関わるべきではありません」
「そんな……」
「私のしたことを、知らないわけではないでしょう」
 吊り橋効果、という言葉がある。恋と恐怖は同じ、心臓の昂りによって自覚されるものだ。戦場では比較的、珍しくなかった。残忍な面を持つ兵士ほど、心根の嫋やかな相手に好かれるようなことが。
 すみれがどういう経緯で自分を想うようになったか知らないが、彼女のそれは、センセーショナルな噂によって生み出された一時の勘違いにすぎない。覚めれば自分などに熱を上げ、告白した理由が分からなくなる。なぜそんな馬鹿げた真似をしたのかと、自分自身の行動を恥じて戸惑う。
 そのとき、契約という言い逃れのできない事実が残っていては、彼女は今ここで交わされた会話をなかったことにできない。世間が彼女に、後戻りを許さない。そんなことは、決して、
(あってはならない)
 黙り込んでしまったすみれに聞こえないように息をついて、弟切はふっと目を伏せた。犀川という男は、あれで結構優しいのだ。自分の娘か、下手をしたら孫にも近い歳の娘に気を回して、彼女の一世一代の告白を部外者が聞くことのないよう、席を立つのだから。
 そういう人であるから、きっと後のこともしっかり考えてくれるだろう。弟切は静かに椅子から立ち上がった。ドアを開け、すみれを犀川という安全地帯へ帰すために。


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