外伝 土塊に咲く花


「私は」
 向かい合った影の動く気配に、すみれが膝の上で手を握った。
「あなたの罪の話をしにきたのではありません」
 その言葉は、少なからず弟切をはっとさせた。向けかけていた背中をドアに向け直し、もう一度すみれを見た。
 彼女は賭けに臨む目をしていた。自分に何ができるという自信も、勝機も、策もないが、天命を信じて身を投げる。そういう目だった。
 だからだろうか――すみれが苦し紛れに放った一言には、持たざる者の持つ鋭さ、第六感のような、本質を衝く視点が組み込まれていた。弟切は自分が初めから、「罪人である」という理由を盾にして、彼女の話を拒絶することしか考えていなかったと思い至った。
「……そうでしたね。これは、失礼」
 羽織を払って一礼した弟切に、すみれが慌てたように手を振る。
「貴女の話を、お聞かせいただけますか」
 弟切はそんな彼女の前に、もう一度、先ほどよりも深く腰かけた。

***

 その名をすみれが知ったのは、今より三年前になる。
「困るねえ、何ヶ月待たされたと思ってるんだい」
「す、すみません……」
「兵隊さんにこんなこと言いたくないけどね。こっちも生活かかってるんだよ」
 ばさりと広げられた新聞が、苛立たしげにカウンターをはたく。真っ赤な爪と真珠の指輪。「生活がかかっている」という言葉のわりには大きな、揃いの真珠の耳飾りを光らせて、女主人はあけぼののような不思議な色の眼鏡の奥から、ぎろりとすみれを見た。
 坂下の片隅にある、古い飲み屋だった。多分女の年齢よりも、遥かに建物が年上だった。坂下には昔から、こういう店がいくつもある。軍の施設に勤める者の家族の居住区という、閉鎖的なコミュニティが作り出す、数代に渡って引き継がれた小さな小さな老舗たち。
 十八のすみれにとってそこは、敷居が高く、明かりが暗く、壁や椅子はみな煙草の匂いを充満させて、決して居心地のいい場所ではなかった。だが来なくてはならなかった。契約者の溜め込んだつけを払うために。
「あんた、あといくらあるか分かってんだろうね」
「はい……」
「……いっそ、ここで働くかい? ってね。言ってやりたい気持ちはあるけどね」
 女主人の言葉に、すみれは曖昧に微笑んだ。いっそそう言ってくれたら、頷きたい気持ちだった。軍規が、現役の花であるすみれに軍の外での仕事を認めてくれないが、それさえなかったらどんな商売にだって飛び込んだだろう。人生で初めてできた、一回り上の契約者は、長い戦争暮らしで気の荒れた浪費家だった。
 彼は昼の間、優しく頼もしい。だが日が暮れると徐々に目つきが鋭くなって、ぶつぶつ、独り言で聞き取れない悪態をつく。酒を飲むと少し機嫌が良くなって、下士官や友人の訪問に応える。だが彼らが出ていくと、また糸が切れたように目から光が消え失せる。
 二面性を知るのはすみれと、死んだ元の契約者、それと彼がこうして呑んで回る数軒の馴染みの店の主人だけだった。あんた、あの男の新しい花なのかい。初めてこの店を訪れたとき、そう言って見せられた領収書の枚数に、すみれは目眩を覚えた。ひとまず持ち合わせをすべて支払って帰り、どういうことだと訊ねると、そういうことだと返された。その日から、谷底で空を見上げるような途方もない気持ちが続いている。
 後になって思えば、このとき、誰かに事態を訴えればよかったのだ。だがすみれは、契約者を失うことを恐れて言い出せなかった。契約を切ってからの三十日間――俗に花の三十日と言われる――体が次の蜂を迎える準備を整えるまでの期間は、死をも頭を過ぎる苦しみの期間だという。実際に、耐え切れずに命を落とす花もいる。そんな噂を耳にしては、生きているだけ今のほうがましだとさえ思えた。
 だが、しかし。
「あんたの蜂、今のままじゃ死ぬよ」
「え……?」
「ここんところ、明け方まで帰らない。あの足で戦場に出てると思うと、毎回、今夜が最後かと思うね」
 ホレ、と女主人が領収書を数枚、切って寄越した。それは束になった数ヶ月、数年分の、ほんの上辺に過ぎなくて、返しに来たはずなのに先月よりも分厚くなって見えた。
 心身ともに限界、という言葉が頭を過る。すみれも、彼もだ。自分はこのまま、あの人と共倒れになって死んでいくのだろうか。ぼんやりと、そんな未来が迫ってきているのを意識したときだった。
「おや」
 引き戸が開いて、薄暗い店の中へふいに光が射しこんだ。女主人は足元を見ただけで、誰が来たのか察しがついたようだった。綺麗な――あれは何で染めているのだろう。爪先からわずかに見える底が葡萄色の、草履をはいた足だった。雪色の羽織が昼の日差しに、今にも解けていきそうにひるがえる。
「……ああ、どうも」
 先客がいたとは。一瞬、そう言いたげな目をして、青年は枯れ木のような茶色の髪の陰で微笑った。見たことがあるような気がした。だが名前までは分からなかった。
「話してるだけ。もう終わるよ」
「すみません」
「水でも飲むかい?」
 奥へ進むべきか、迷った青年に、女主人が声をかけた。彼はここの馴染みであるようだ。そうでなければこんな、本来開店前の時間にやってきて、にこやかに招き入れてなどもらえまい。
 すみれは見るつもりで見たわけではなかったが、女主人の手元に目を向けた。来客は一人なのに、彼女は水を二杯用意していた。
「……それは?」
「えっ? ……あ、す、すみません……!」
 一瞬、それが自分にも貰えるのではないかと期待したことを、すみれは恥じた。払うべきものも払えないで、貰えるものなどあるはずもないのに。
 少し喉が渇いていたのだ。物欲しそうに見てしまった横顔と、カウンターに落とした領収書を慌てて片づける。女主人がクリップで残りを束ねた。それを見ていた青年が、まさか、と気づいたように、
「……つけですか」
「っ、はい」
 小さな声で訊ねた。すみれはなぜかその瞬間、とんでもなく恥ずかしい気持ちがした。冷えた土間を踏む彼の草履の裏の、葡萄色のことを強く思った。それはとても綺麗な草履で、自分とは真反対の場所にあるような、そんな気がした。
 早くここを出なくては。わけもなく急き立てられるように思って、ぱっと頭を下げたとき、
「ジナさん」
 青年が耳慣れない名前を呼んだ。ん? と答えた声で、すみれはそれが女主人の名前であったことを知った。
「これで、足りませんか?」
 ことん、という音を立てて、青年が袂から取り出したものをカウンターに下ろした。それは七宝の二枚貝を、金の装飾でとじ合わせた、すみれの手のひらほどの懐中時計だった。
 二枚貝は縦に開くのではなく、横にずらす形で開く。すると文字盤の裏からは、薄いルーペが姿を現した。
 女主人は眼鏡の奥で、ぎょっとした顔をして、
「本気かい?」
「ええ。元々、家から持たされただけのものです。私の趣味ではありませんから」
 青年はあっさりと答えた。すみれはその、見たこともない油膜のように輝く、美しい懐中時計に見入っていた。青も緑も、すみれの知る言葉では到底言い表せない色をしていた。なんという青、なんという緑だろう。溶けた金属のような艶が、不思議でならなかった。
「あんた」
 ぼうっとしていたすみれを、女主人が鋭い声で呼んだ。ぴしゃんと頬を叩かれたように慌てて目を逸らしたすみれに、呆れ顔で溜息を漏らす。
「斜め向かいに質屋があるのは知ってるね。行ってきなさい」
「え?」
「たっぷり利子を含めて、三割もらうよ。店ごと買い上げられるわけにもいかないんでね」
 ほら早く、と散々吸い込まれるように見つめた時計を手渡されて、すみれはそのときになって初めて、青年がこれを自分に代わって支払ったのだと分かった。驚いて、言葉も出ずに見つめたすみれに、
「どうぞ、お行きなさい」
 彼は促すように言って、コップを持った手で暖簾のほうを示した。
 すみれは只々頭を下げて――本当は言うべきことが山ほどあったのに、現実味がなくて、何も言えなかった――引き戸を開けて、転がるように外へ出た。西日の中に懐中時計の金色が光るのを見たとき、自分を包む日常が大きく変わろうとしているのを感じた。どきどきと高鳴る心臓に、押しつけるように時計を抱いて、ぱっと駆け出そうとしたとき、
「っ、きゃ」
 角からふいに現れた人影と、ぶつかりそうになった。


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