第二十五章 誰も知らない明日へ


「少しくらい遅くなっても、ケイは待っていてくれると思うのです。どうしてと言われても、ケイだから、としか言いようがないのですけれど」
「……そっか。それもそうだったわね」
「ええ、だからもう少し。あの人から譲り受けた魂で、新しくなった世界を眺めてから、行こうかと」
 海の色が乗り移ったような、悪戯な目をして巴は言った。はっとした千歳に今度こそお辞儀をして、待ちかねて馬車を降りてきた兄の元へ駆けていく。兄の袖を引いて何事か話し、彼は千歳を見てにこやかに一礼した。妹を先に馬車へ乗せ、慣れた仕草で扉を閉める。
 走り出した馬車が見えなくなるまで、そこに立って見送ってから、千歳は穏やかな気持ちで背中を向けた。そうして兵舎の壁に沿って、耐火煉瓦の塀の横を進み、奥に曲がったところで目当ての後ろ姿を見つけた。
「橘中尉」
 声をかけると、気配に気づいていたのか、驚いた様子もなく振り返る。雪をかぶった桜の下で細い煙を吐き出して、
「なんだ、お前もここに来たのか」
 帽子の陰で、琥珀色の眸をかすかに和らげた。
「中尉がここにいそうな気がしたから」
「見送りは終わったのか?」
「ええ、たった今」
 そうか、と頷いて彼は視線を慰霊碑に向ける。倣うように見知った名前を目でなぞって、千歳は隣に問いかけた。
「そっちはどうだったの? 弟切さんの面会」
「ああ、元気そうだ。足もすっかり良くなって、処分もじきに決まる」
「……やっぱり、罰はあるんだ?」
「それは仕方ないだろう。……だが、最善は尽くす」
 運が良ければ階級剥奪くらいでどうにかなる、と笑って、橘は桜の枝に視線を移した。彼がこういう顔をするときは、ほとんど確信を持っているときだ。きっと何か、あの地下牢から弟切を連れ出せる算段があるのだろう。
 彼が東黎を裏切った一件について事情を釈明するため、橘が長いこと伏せてきたネリネの真実も公になった。これによって本部は香綬支部および近郊地域の徹底調査を敢行、未だ息を潜めていた西華の諜報員を複数名、洗い出して取り押さえるに至った。
 ナーシサスについても再度の調査がなされ、彼の部屋に保管されていたローズヒップの茶葉が、西華から届けられた品であることが発覚した。弟切の証言によれば、紅茶の缶に指示書や連絡を入れて、支部や坂下に潜んだ諜報員とやりとりをしていたようだ。支部の情報が分かる写真も時々入れていたと言い、ナーシサスがよく写真を撮り歩いていた理由が、今さらながらにはっきりと分かった。
 ローズヒップを始め、複数の茶葉からは微量の睡眠薬が検出された。自覚に至るか至らないかの、ほんのわずかな眠気を誘い、振舞った相手にどことなく気の緩むような印象を与えていたのだろう。安心感を持たせ、信用を得るためだ。つくづく警戒心の強い男で、だからこそ五年間ものあいだ、密通を隠して少佐にまで上り詰めた。
 そんな調査や、他国との国交の回復に本部は慌ただしく――橘の脱獄については、どうも検討を後回しにされている節がある。
 大方ナーシサスを始末し、千歳を奪還して東黎に有益な情報をもたらしたということで、お咎めなしとしたいところなのだが体裁上そうは言えないのだろう。だからいつか、ということにして、延々とその気配のない毎日を送らせている。何も言われないのなら、あえてこちらから訊くこともない。橘も暗黙の了解ということで、それについては触れずに、今まで通り過ごしている。
 シランについても同じことが言えて、彼も寧淳の戦い以降、謹慎とやらは解かれたままだ。近頃は専ら外交官として活動していて、香綬どころか東黎にいない日も多い。
 想像もしなかった日々が、雪の下で芽を膨らまし始めている。ねえ見える? と石碑の上の名前に手を当てて、千歳は天国のネリネに向かって笑いかけた。
「寂しいのか?」
「いいえ。嬉しいのよ」
 橘の問いに、首を振って答える。先日、千歳は彼と一緒に幽安へ行った。
 そこで見たのは予想通りの光景で、ネリネの墓の下には、空の骨壺があるだけだった。ナーシサスが遺体を西華へ回してしまっていたのだ。がしゃ髑髏の一部になって、彼女の肉体は骨まですべて、灰になった。
 納めるもののない墓をどうするかはいずれ考えるとして、千歳は一か八か雨宮に、慰霊碑にネリネの名前を加えてはもらえないだろうかと嘆願した。彼女は東黎の人間だった。この国を裏切れずに苦しんで、同じ戦争を生きた仲間だ。彼女の本当の名前を、この東黎に遺したいと頼み込んだ。
 結果はこの通り、石の上にある。ネリネ・ファンブレー、と。今回の西華から持ち帰った情報に対する報酬として、雨宮は千歳の願いを受け入れた。
 ……永遠のような刹那のような、あの戦場の空間で。
 ネリネに会えた最期の瞬間、千歳は彼女が、本当の魂を取り戻したように見えた。圧縮され混在する数多の魂の中から、ネリネの魂が抽出されて、橘の軍刀を伝って彼女の中に還った。そうして橘のことも、千歳のこともその目ではっきりと見て、穏やかに笑って去っていったように、見えたのだ。
 彼岸の人は、夢の中でも口を利かない。真実は彼女にしか分かりえない。
 でも、見間違えるはずはない、と信じていたい。
 だって自分は、彼女の一番の親友だったのだから。
「千歳」
 風が冷たくなってきた。師走ともなると、やはり昼間でも冷える。ぶるりと震えて両腕で自分を抱いた千歳に、橘が呼びかけた。
「なに――……」
 顔を上げて、返事をしようとした唇にふわりとした熱が降りてくる。
 キス、と認識して目を閉じるよりも早く、その熱は呆気なく離れていって、幻のような温もりだけを残した。
「戻るか、そろそろ」
 それは千歳にとって初めての、供給の意味を持たない口づけだった。
 煙草から伸びる紫煙が、曇天に吸い込まれていく。帽子を片手で引き下げて、橘は背中を向けた。
「……ええ」
 裏返りそうになる声を抑えて、平静を装い、歩き出した彼を追って隣に並ぶ。
 古いレコードの奏でる音楽が、どこからか漏れ聞こえてくる。香綬の町に響いた正午の鐘と音を交ぜて、緩やかに広がるそれを、千歳はこの先、いつまでも覚えている予感がした。



〈花に蜜蜂/終〉


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