第二十五章 誰も知らない明日へ


 温かな紅茶の水面に回し入れたミルクが、白いドレープを描きながらカップの底へ沈んでいく。
 砂糖は円にかき混ぜるのではなく、スプーンを縦に動かしてかき混ぜると綺麗に溶ける。そんな話を聞いて実践した二杯目のミルクティーは、心なしか一杯目よりも美味しくなった気がした。
「巴って、意外と大人っぽいところあるわよね」
 砂糖とミルクをたっぷり入れた甘い紅茶に口をつけてから、千歳は正面に座った少女の手元を見て、目の上を平らにした。
 彼女の前には濁りのないコーヒーが置かれている。砂糖のひと匙も入っていない、ブラックコーヒーだ。一杯目に甘いミルクティーを味わった彼女は、二杯目の注文で喉を澄ませるように、迷いなくコーヒーを選んだ。
「そうでしょうか。自分ではまだまだ、幼さに甘えていると思いますが」
「その感覚が、すでに大人っぽいっていうのよ」
 むう、と口を尖らせた千歳に、くすくすと笑いを漏らす。巴といると時々、どちらが年上なのか怪しいものだと思う。彼女の見た目がまだまだ少女然としているものだから、余計にそう感じるのかもしれないが。
 ふふ、とはにかんだ表情を浮かべて、巴はすすき色の髪を耳へかけた。
「千歳さんは……、以前より可愛らしい印象になりましたわ」
「えっ」
「初めてお会いしたとき、綺麗な方だと思ったのです。空気がしゃんとしていて、眼差しに力があって。今でもそれは変わらないのですけれど、最近、よく笑ってくださるようになりました」
「……私、そんなに変わった?」
「わたくしの目には。……もう、一年になるのですね」
 あなたがここへいらしてから。歌うようにつけ加えた巴に、千歳も懐かしい気持ちになって、そうね、と頷く。師走の朝だ。ラウンジは人がまばらで、女給がコーヒー豆を挽く音だけが、暖炉に温められた空気を厳かに満たしていた。
 寧淳での戦いが終わってから、一ヶ月と少し。香綬支部は近頃、映画のエンドロールのような穏やかな日々を送っている。実際、大きな時代がひとつ、終わろうとしているのだろう。大帝戦争時代という、長く苦しかった時代が。
 寧淳の戦いは大きすぎた西鬼の崩壊という、西華の過信が招いた失策により、東黎の圧勝に終わった。がしゃ髑髏型は骨格の各部ごとに製造した西鬼を繋ぎ合わせていたのだが、首を落とされたことがきっかけになり、一体だった西鬼が二体に分かれてしまったらしい。
 頭数の増えた西鬼を呪術師が操りきれなくなり、暴走が始まり、元々無理のあった構造からあっというまに崩壊。制御を失った亡者が一斉に溢れた。
 これによって西鬼の製造方法が大陸全土に知れ渡ることとなり、東黎を始め、他の二国も人道的観点から西華に批判の意思を示した。どうやら南輝は新王都支部戦の際に、薄々その可能性を感じ、真偽を確かめるべく様子を窺っていた最中だったらしい。どうりで西華と同盟を結んでいたわりには、夏以降、東黎に対して何の攻撃もしかけてこなかったわけである。
 北明は元々、西華に滅ぼされかけたようなものであったし、東黎は言わずもがな、百年に及ぶ因縁の仲だ。南輝が最後に掴んでいた手を離したことで、西華は四国の中で孤立する形となった。
 これ以上、戦争を継続することはできない。実質の停戦状態だ。年が明けたら召集される予定の四国会談で、本格的な終戦に向けて、協議が執り行われることだろう。
「長閑なものですね」
「本当にね」
「過ぎ去ると、何もかもが遠い嘘のよう」
 窓を見つめて呟いた巴の言葉に、千歳もそっと首肯を返した。外からは兵士たちの笑い声が聞こえてくる。
 西鬼の襲撃がなくなって、訓練場にはいつのまにかサッカーコートが作られた。誰がどこから見つけてきたのやら、石灰で線を引いて、空気の抜けていたボールを膨らまして。
 ネットがないものだから、砂に描かれた線を越えたらそれがゴールだ。誰もがボールを追いかけて走りたがるものだから、キーパーもいるようでいない。おかげでやたらと点が入って、しょっちゅう歓声が上がる。
「混合チームとは、どういうルールなのでしょうね」
「花が入れたら三点だそうよ」
「ああ、なるほど」
 単純明快なハンデに、巴が笑った。戦いばかりで鬱屈し、人の噂とウイスキーだけを楽しみに生きていたような兵士たちが、外ですっかり少年のように騒いでいるのを見るのは、千歳も嫌いではない。
 衛生兵の主な仕事は擦り傷の手当てと洗濯になり、将校たちも近頃は昼間からラウンジで本を読んでいる。新たな時代が幕を開けるまでの、束の間の休息を謳歌するように、毎日は太陽に照らされた朝露の煌きで過ぎてゆく。
 きっとこういうのを、平穏というのだ。まだ慣れていないから、眩しくて、時々泣きそうになる。ミルクティーを飲み干して感傷をごまかしたとき、巴が腕時計を見て、あっと声を上げた。
「時間ですわ。そろそろ表へ行っていないと」
「あっ、もうそんなに経った? じゃあ行きましょう」
 ええ、と残りのコーヒーを飲み切って、慌ただしく席を立つ。今日は空木家の集まりのため、巴の兄が彼女を迎えに来るのだ。
 千歳も外まで見送りに出ようと、一緒にラウンジを後にした。ありがとうございました、と言う顔馴染みの女給に、ご馳走さまと笑顔を返す。……確かに、以前より笑うようになったかもしれない。挨拶としての笑顔ではなく、自然に出てくる笑顔が増えた。自分では指摘されるまで、分からないものだったけれど。
「あら、もういらしていたみたい」
 煉瓦を組み直されたばかりの、妙にそこだけ新しい正面玄関を出て、巴が声を弾ませた。彼女は三つ離れた兄と、仲の良い兄妹だ。正面入り口のすぐ傍に、二頭立ての馬車が停まっている。質素だが傷ひとつない黒塗りの馬車で、一目で良家の子息の迎えと分かるそれだった。
「ここで大丈夫です」
「そう? じゃあ、気をつけてね」
 はい、とお辞儀をする巴を見送り、千歳はまたね、と手を振った。そうしてその背中が少し小さくなってから、ふと彼女の距離が実際以上に遠く離れていくように感じて、ねえ、と叫んだ。
「はい?」
 足を止めた巴が振り返る。
「もう、行っちゃう?」
 彼女の透き通った眸を見つめて、千歳は訊いた。胸の中で、一羽の白い鶴が空に飛び立とうとしている。
 巴は数秒、何を言われているのか分からない顔をしていたが、やがて同じ鶴を見たのだろう。悟ったようにふわりと笑った。
「いいえ、まだ」
「本当に?」
「ええ、だって手土産になる話が足りませんもの」
 柔らかな風が、彼女の長い髪をひるがえす。そうしていると巴は、永遠の秋の野に立っているみたいだ。


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