第二十四章 刹那と永遠の狭間


「下がるな! 決して町に入れさせてはいけない!」
「ここで食い止めるんだ! 総員、かかれ!」
 錯乱状態に陥りかけた戦場に、指揮官たちの怒号が響く。亡者は雨のように際限なくがしゃ髑髏から現れて、蜂と見紛う軽やかさで兵士の集団に飛びかかり、首元に噛みついて真っ赤な悲鳴を響かせた。
 千歳は崩れそうになる両足を叱咤して立ち上がり、火矢を放って、一人ずつ確実に胸を射抜いていった。灰の中からすぐに矢を拾い上げて、またつがえては放つ。頭が衝撃でぐらぐらと揺れていて、手を休めたら最後、恐ろしさで身動きが取れなくなってしまうのが分かっていた。
 今まで何人殺したの? 何と戦ってきたの?
 今、目の前にいるのは誰? 生前の名前は? 美しかった頃の姿は?
「ああ――――!」
 人間だった、と認識したら、つがえた矢を放せなくなってしまう。脳裏を駆け巡る自分の声をかき消すように声を張り上げて、千歳は頭の中を引っかき回し、今このときを戦い抜くための呪文を必死に探した。何か、何かないか。罪の意識を塗り替えられる言葉を。両手を斬り落とさずにいられる言葉を。砕けそうな心を守れる言葉を。
 ――私は、東黎の兵士だから。
 ふいに浮かんできたその言葉が、誰のものだったのか。恐怖に委縮した脳では、よく知った人の声だった気がするのに思い出せなかった。
 ただその言葉は、己の手足に逃げ出せない理由を与えるにはちょうどよかった。がちがちと震える奥歯を噛み締めて、狂喜に満ちて向かってくる蒼褪めた顔に矢を放つ。
 辺りに舞い散る黒い灰で、背中を丸めて噎せ込んだ。
 自由を奪われ、生きることも死ぬことも許されなかった彼らの憎悪が、呼吸の度に体の奥まで入り込んできて、肺を圧迫していくようだ。生きていて狡い。生きていて酷い。生きていて汚い。生きていて羨ましい。
(ええ、分かってる)
 汗ばんで滑る手のひらをコートで拭って、千歳は有象無象の叫びに心の中で応えた。
(だからいつか、地獄へ行くわ。貴方たちと違って)
 天の国が本当にあるとしたら、どうかこの人たちを迎え入れてと、強く願いながら弓を引いた。殺されてやることも、助けてやることもできない。せめて今さら一つや二つ、数え上げてもきりのない罪を引き受けて、目の前の魂の昇華を祈ることくらいは許されると思いたかった。
 亡者のままでは、彼らも救われない。
 取り乱していた東黎軍の間にも、次第にそう思う者たちが増えてきたのだろう。失われていた連携が取り戻され始め、無限に思えた亡者の陰から、段々と風が吹き抜けるようになってきた。砂埃の匂いに、甘い腐臭が混じる。生者の体からは決して漂わない、彼岸の匂いが。
 ふ、とその匂いが一際濃く鼻をついて、反射的に振り返った千歳は息を呑んだ。
「ネ……」
 その先の名前が声にならず、喉の奥で凍りつく。
 燃える花のような、波打つ赤い髪。
 吹きガラスのように丸い、霧をかぶった青い眸。
 つんと上を向いた小さな鼻の下で、悪戯に笑っている、薄紅色の唇。
(ネリネ)
 見間違うはずもない――親友が肩を叩いていた。頭の中が真っ白になって、千歳の五感から世界が消えた。前にも後ろにも、目には彼女しか映らず、音は何一つ聞こえてこない。
 天も地もなく広がった空間の中に、二人きりだった。どうして貴方がここに、と訊ねようとして、自分がなぜそれを訊こうとしたのか分からなくなる。時間の歯車が外れてしまって、過去も現在も、遠い夢のように混濁する。
 ネリネはそんな千歳に呆れているかのように、ゆっくりと唇を綻ばせると、記憶の中の彼女の像と寸分違わぬ形に目を細めて、千歳、と。
 囁いたような気がして、その口が大きく開くのを呆然と見つめた瞬間、誰かが強く、後ろから千歳を抱き寄せた。
 首元に回された腕から、かすかに煙草の香りが漂う。その匂いが、千歳に五感を取り戻させた。
 閉まっていた扉が開かれたように、音がどっと耳へ流れ込んでくる。真っ白だった空間に鮮やかな色がつき、足が地面に触れ、嗅覚が甘い葡萄の香りを吸い込んだ。視界の端に金の髪が揺れ、ネリネの眸がゆっくりと、千歳の頭上を仰いだ。
「ネリネ」
 懐かしげな声が一言だけ、そう呼びかける。
 青灰の眸が、静かな瞬きをひとつした。弧を描いた唇が、ありがとう、と囁いたように見え――次の瞬間、灰になって風に散っていく。
 彼女の胸には月のように光る銀色の軍刀が、心臓を貫いて深々と突き刺さっていた。


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