第二十四章 刹那と永遠の狭間


 郊外に吹く風は、人の生活を知らない土の匂いがする。ただしそれは、豊かな緑の丘に吹く瑞々しい匂いとも違う、虚しく乾いた砂埃の匂い。
 香綬を出て西に一時間も行けば、そこはもう、人々が暮らしを棄てた残骸の町だ。旧王都との国境の町、寧淳(ていじゅん)。かつては王都へ繋がる門であったその荒野に、東黎軍は一万の兵を敷き、西を睨んで敵が来るのを待ち構えていた。
 千歳は全体の中ほどに立って、大弓を握り締め、じっと息を潜めていた。カーキと白の制服が一糸乱れず列を成していて、空から見たら自分たちは、一枚の織物のようだろう。騎蜂兵の刀や槍が、ひそやかに織り込まれた銀糸のように煌く。さながら決戦の地に立てられた、旗そのものだ。何人たりともこの先へは通さないと、東黎の最西にひるがえった蜂花の旗。
 ふと、前に立つ花繚兵の背中が橙色に染まった。肩を包んだ温かな気配に、後ろを振り返る。東の空に、真円の朝日が今、顔を覗かせたところだった。
 そのとき、前方で誰かがあっと声を上げた。
「何か来る」
 背伸びをして、千歳も上背の高い兵士たちの隙間から音のするほうを覗いた。国境に広がる木立の奥から、何かがこちらへ向かってきているのが見えた。
(何かしら? 細長い……)
 朝日に照らされた木々の影が濃くて、目を凝らしてもなかなか詳細が判別できない。西鬼だろうか。白い人型のような――無数のものが近づいてくる。
「戦闘、用意!」
 最前線に立った騎蜂兵が次々と武器を構え、緊張感が呼吸に乗って千歳たちの元まで届いた。両隣の花繚兵が手を握り込んだのを見て、千歳も下ろしていた大弓をそっと持ち上げる。
 次の瞬間、鼓膜を破るようなガチン! という音が、遥か頭上から響き渡った。
「な……!」
 一斉に上空を見上げて――全員が目を玉のように瞠り、言葉を失った。そこにあったのは朝日に染まる、広い青空ではなかった。
 艶のない、濁った白い頭。
 落ち窪んでこけた、洞窟のような頬。
 焦点のない、空っぽの両目。
「なんだ、あれ……!」
 木立の上からその目で覗き込むように――巨大な髑髏が、千歳たちを見下ろしていた。
 頬も目も鼻も、すべてがあまりに大きくて、ひとつの顔だと認識できるまでに数秒の間を要した。大人が五十人は輪になっても囲みきれるかどうかという大きさの頭蓋骨は、白鯨のように太い頸椎に支えられて、カタカタと歯を震わせている。
 その這いずる手足や肋骨を、木々の間に見ていたのだ。無数の何かではなくて、迫ってきていたのは三体の、巨大ながしゃ髑髏だった。
 誰もが目の前の光景を、まともに現実として受け入れられなかった。がしゃ髑髏は重そうに首を巡らせて、呆然と立ち竦んでいる千歳たちを一頻り見渡すと、カクン、と顎が外れそうなほどに大きな口を開けて、
「――避けろ!」
 前方で橘が、声の限りに叫んだのが聞こえた。止まっていた時が取り戻されたように、わあっと隊列がどよめく。
 ガチン、と歯を鳴らす不気味な音が、空を裂いて響いた。頭から倒れ込むように、がしゃ髑髏は東黎の隊列目がけて食らいついてきた。踏み潰された木々がめりめりと音を立てて倒れ、辺りに砂煙が濛々と立ち込める。
「火兵!」
 号令が聞こえて、千歳は素早く矢をつがえた。舞い上がる砂の先にある、巨大な影を目がけて射る。炎が次々と髑髏の骨を炙り、関節を震わせて身悶えた。効いている。
 続けてもう一本、矢を放とうと構えた。だがそのとき、晴れ始めた砂煙の中で、がしゃ髑髏の肩がぐるりと動くのが見えた。
「逃げて!」
 千歳は咄嗟に叫んで、周囲の兵士たちを突き飛ばした。途端、勢いよく振り下ろされた手が、先刻まで千歳の立っていた場所を叩きつける。
「化け物……!」
 衝撃で地面が跳ね上がり、転がった兵士が声を引き攣らせて言った。今までに見たどの西鬼よりも、その言葉が相応しい西鬼だった。
 土兵がその手を罅割れた地面に埋めたが、虚ろな眼窩はそれを一瞥し、何のことはなく引き抜いた。木兵が絡めた枝と蔓を、木立の木と一緒に鎖のように引きずって、三体のがしゃ髑髏が寧淳にその全貌を現す。難破船のような腰骨の内側から、西華兵が次々に飛び降りて、ライフル銃を構えた。
 空砲がひとつ、高らかに鳴り響く。
 その一斉射撃の号令が、開戦の合図だった。
「東黎、かかれ――!」
 恐怖なのか、痛みなのか、決起なのか。判別のつかない叫び声が無数に上がり、緊張に支配されていた空気が、迸る血潮の熱気に変わった。銃声が雨のように辺り一帯へ降り注ぎ、視界の隅でパアッと赤色が散る。
 体内に巡る血が鉄の匂いに呼応して震え、細胞の一つ一つが、生への欲望を膨れ上がらせて弾ける。本能が手足を動かすままに、千歳は力強く矢を引いて、放った。
「うあっ!」
 銃弾をすり抜けた千歳の後ろで、その弾を受けて誰かが倒れた。寸でのところで躱した髑髏の手が、隣に立っていた誰かを潰した。心臓が拉げるような痛みが、胸を走った。
 それでも、奮い立った身体が、その痛みに動きを止めることはない。
 命ある細胞は、死と戦うことをやめられないのだ。
 ドッ、と地面を真っ白な手が薙ぎ払う。
 隊列はもはや、形を取り戻すことが不可能だった。千歳はがしゃ髑髏の死角に回って首に火矢を放ちながら、ナーシサスの言葉を思い出して唇を噛み締めた。遠い惑星に行く前、あの人も今の私と同じ痛みを覚えた時代があったのだろう、と思った。
 死は彗星のようなものだ。無作為に向かってきて、何かにぶつかるまで止まることがない。この身が衝突を躱せば、後ろに立っていた罪もない誰かを貫く。分かっているのに、体は勝手に動いて死を忌避し、誰かを身代わりに生き長らえていく。
 心にも体にも悪意などないのに、生きれば生きるほど、見えない血溜まりに汚れていく。倒れた誰かの顔を見る余裕もなく、逃げて、戦って、抗って。
 何ひとつ綺麗なところを失くしてまで生きることに、何の価値があるだろう? そう思うのに、この世界にある喜びを一滴でも知った命は、とてつもなく、
(――……重い)
 抱えたことのない重さに、胸が圧し潰されそうだ。朝日に照り返す真っ白な背骨の上、軍刀を振り上げた橘と視線が交わって、千歳はわけもなく溢れそうになる涙を呑み込みながら、彼の切っ先が落ちる場所を目がけて矢を放った。
 頸椎のひとつが上から刀を、下から矢を受けてびしりと罅割れる。炎が亀裂を膨張させ、音を立てて砕け散った。
「やったぞ!」
 巨大な頭蓋骨が地面に落ちたのを見て、周囲の兵士たちがわっと沸き立った。千歳もほっとして笑顔で応えた。だが、次の瞬間。
 ――ガチン、と歯を鳴らす音が、地面から聞こえた。
 まさか、と振り返れば、やはり音は転がった頭蓋骨から聞こえてくる。カチカチ、カチカチと具合を確かめるように歯を擦り合わせて、胴体を離れた首がぐるりと辺りを見回した。
「嘘、まだ動いて……!」
 あまりの不気味さに全身が総毛立ち、千歳は飛び退って離れた。首が動くということは、と思い当たって上を向けば、胴体も変わらず自立し続けている。唖然とした顔で見下ろしていた橘が、はっと身を屈めた。別のがしゃ髑髏が彼に目をつけて、枯れ木のような手を伸ばしてきたのだ。


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