第二十三章 決戦前夜


「……寝首を掻きに」
「そんな晴れ着姿で?」
 千歳が答えると、彼は尚も訊ねた。指摘される覚悟はしてきたつもりだったのに、いざ面と向かうと、頬に熱が上る。何を答えたらいいのか、ちっとも頭に浮かんでこない。
 棒立ちになったまま口ごもっている千歳をじっと見つめて、琥珀色の目が、ふ、と和らいだ。
「千歳」
「……っ」
「おいで」
 とん、と指の先でベッドを叩いて、橘が呼んだ。握りしめたままだったドアノブを離して、一歩一歩、近づいていく。背後でドアの閉まる音が響き、静かな室内の空気を震わせた。
 その振動を、体の中に呑み込んでしまったみたいに、胸が震えている。
(……明日、何もかもが終わってしまうかもしれないのなら)
 ぎしりとベッドに膝をついて、千歳は橘の肩に腕を回した。
(私は、最後に貴方といたい)
 乾いたばかりの髪を梳いた指が、頬に下りてくる。囁くような熱が唇に触れて、閉じた瞼の裏で、熱い花が咲いた。


 窓の外に広がる真っ白な空を見たときに、自分は死んだのか、と弟切は思った。
 そうではないことに気づいたのは、数秒、無言で瞬きを繰り返してから。動かした腕に繋がれている点滴台が、管を揺らされて、キイキイと音を立てたのだ。死後の世界にはなさそうな、硬い銀色のステンレスの光。弟切は辺りを見回して起き上がった。
 と、小さなノックと共にドアが開けられた。
「まあ」
「空木……さん?」
 ベッドに腰かけている弟切を見て、巴は元から大きな目をさらに大きくし、泣き出しそうに相好を崩した。衛生兵の正装を身につけている。弟切はそれを見てようやく、ここがどこなのかを理解した。
「特別医務室?」
「ええ、そうです。西華から戻る途中で、毒を撃たれたのを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ……」
 手のひらで顔を覆って、きつく目を閉じる。覚えているも何も、つい先刻のことのように思われた。足に巻かれた包帯に反対の手を当てて、頭の中を整理する。西華の兵に銃で撃たれ、橘と千歳と共に塀の外へ逃げた。走って、街へ紛れ込んで――その先の記憶は、分厚い雲に覆われている。
 どうやってここへ帰ってきたのかも、覚えていない。
「私は、意識をなくしていたのですか」
「ええ、四日ほど」
「四日……」
「橘少尉と千歳さんが、あなたをここへ連れ帰ってくださったのですよ」
 巴の声が、耳の奥で淡い絵の具のように滲んだ。四日という時間の流れを、分厚い雲に流し込む。そういえば西華を出たときに、もう大丈夫だ、という声を聞いた覚えがある。あのときはまだ辛うじて、意識があったのか? 自分はそれから――
「……満月」
「はい?」
「満月は、いつですか」
 熱に暈された視界で見上げた、夜空の記憶が甦った。あのときの月から四日が経って、今は一体いつだ?
 血の気の引いた顔で問いかけた弟切に、巴が身を屈めて視線を合わせ、一言一言、ゆっくりと言い聞かせるような口調で諭した。
「満月なら、つい先ほど西の空に消えました」
「では……」
「お二人は、すでに香綬から新王都方面へ向かって出発を。一時間ほど前に、ここを発たれました」
 弟切の喉が、引き攣れた息と共に上下した。巴はそれを目にして、宥めるように彼の手を取り、今にも砕けそうに強張った甲を自らの両手で包んで解きほぐした。
「先生を呼んでまいります。ここで待っていてください」
 東の空から橙の光が一筋、窓の桟を乗り越えて、部屋を横切った。


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