第二十四章 刹那と永遠の狭間


「少尉!」
 頭を落とされたがしゃ髑髏が、怒りに暴れ出した。橘は振り落とされて地面に降り、すぐさま体勢を立て直した。その体に、大きな手のひらが影を落とす。
 最悪の想像が、未来から送られてきた画像のように千歳の脳裏に瞬いた。武器を取るのも忘れて、駆け出して、手を伸ばそうとしたその瞬間。
「――え……」
 ガシャン、とがしゃ髑髏の体が大きく傾いて、今にも橘を潰そうとしていた腕が、肩から抜け落ちた。

「あれは、人です」
 水を打ったような沈黙が、真っ白な部屋の中に広がる。凹凸のないリノリウムの床を音もなく流れて、四隅まで隈なく満たしていく。解毒剤が一滴、透明なパックから落ちて、固まるのかと思われた空気を揺らした。
 は、と男は言葉を処理しきれずに聞き返す。
「戦争で死んだ兵士や、民間の貧しい人々の遺体を、軍が買い取っています。手始めにそれを腐らないよう、薬漬けにして、埋葬せずに野ざらしにしておく」
「な、なぜ……」
「この世に強い憎しみを持たせ、魂を留まらせるためです」
 淡々と、抑揚のない声で弟切は説明した。ベッドに腰かけた彼の前で、黎秦本部の腕章をつけた聴き取りの男が二人、強張った顔を見合わせる。ペンを走らせるべき手は、表に指示された一つの質問の欄で、凍りついたように止まっていた。
 ――西鬼とは何か。
「あるべき形で葬送されず、雨風に曝された己の肉体を見て、魂は死後の世界へ旅立つことを躊躇し、肉体の最期を見届けようとします。それを呪術師が捕まえて、何十、何百という数の魂を小さく、小さく……個々の形が壊れるように握って、ひとつの魂に成型し直します」
「……本気で言っているのか?」
「この目で見ました。東黎にも卓越した魔術があるように、あの国には、他に類を見ない高度な呪術があるのです」
 ごくりと、男たちが固唾を呑んだ。彼らに眸を開いて、虹彩と瞳孔の奥まで見せても構わないというように、弟切は揺らがない眼差しで二人を見据えている。おそらく自分はこの真実を知っていたから、毒を撃たれたのだ。一ヶ月前、初めて知った。知ったときは動揺して、「君に仕事をあげよう」と現場に案内したナーシサスを、理解の及ばない異世界の存在のように感じ、ぞっとした。
 仕事道具は手袋と、甘い香りを放つ薬剤だった。野ざらしにされた死体の山を丁寧に広げ、毎日それをかけて回ることが、新参者に与えられた日課だった。
「魂がひとつに成型されたら、神話や伝承の生き物を模ったマスクに、彼らの肉体を詰めます。すると魂は自分たちの肉体を求め、自ら飛び込んでいく」
「……ああ」
「幾多に分かれたままの肉体を繋ぎ合わせ、ひとつの大きな体にして蘇らせ、定着します。こうしてできあがるのが、見た目は伝説の生き物、中身は腐りかけの死肉、魂は人を憎み、呪術によって対象を襲うように干渉を受けた、怪物です」
 弟切は膝の上で、今もあの甘い薬品が染みついている感覚のする両手を握り合わせた。
「マスクと薬剤と魂……西華の持つ最上の技術と、科学と、呪術です。それらを使って人から作り出されたものが、西鬼なのです」

 ごとん、と落ちた腕から覗いたものに、千歳は目を疑った。肩と腕を繋いでいた関節の部分から、柔らかな栗色の毛が出てきたのだ。毛の下には眉があり、目と耳があり、鼻がある。どこからどう見ても赤ん坊の頭だった。
 一瞬、自分が今なにを見ているのか、分からなくなった。その赤ん坊は、まるで生まれるように――別の腕によって、骨の揺籃から押し出された。
 ごとん、ごとんと、あちらでもこちらでも、がしゃ髑髏の骨が外れて落下し始める。断面を目にした兵士たちから、ひっと息を呑む悲鳴が上がった。
「ああくそっ、だから無理だって言ったのに」
 地面に頽れた胸骨と背骨のあいだを慌ただしく抜け出して、西華の兵士が吐き捨てた。
「こんな大きさ、作れるわけがなかったんだ。寄せ集めの怪物を、いくつも寄せ集めて……まともに動くわけがない」
 ほら立て、と急かすように、崩れていない足を蹴る。すると千歳たちが呆然と見つめる前で、不意にがしゃ髑髏の足首から人間の手が突き出し、男の足を掴んで引き倒した。
 うわ、という声が喉を締め上げた手にかき消される。あっというまの出来事で、誰も反応ができなかった。西華の兵士たちに、ざわめきが広がり始めた。白目を剥いて仰向けになった仲間を見下ろし、近づいていった兵士が「おい」と声をかける。
 その兵士の背中に、ぼとり、と何かが降ってきた。
「いって……なんだ、いきなり」
 押し倒されて前のめりに転んだ彼は、忌々しげに後ろを振り返る。そうして自分の背中に跨っているものを確認して、目も鼻も口も、顔のすべてを恐怖で凍りつかせた。
 襤褸きれを纏った生気のない、痣だらけの膚。枯草のように絡んで縺れた長い髪。片腕のない痩せた女がそこに座り込んで、腐りかけの頬にぎょろりと浮き上がった目で、彼を見下ろしていたのだ。
「あああっ!」
 恐怖のあまりに狂乱した声が、辺りに響いた。男はライフル銃を滅茶苦茶に撃って、女の頭を吹き飛ばした。助けに入ろうとした仲間を撃ったのも気づかずに、ぐらりと傾いた女の体を突き飛ばし、地面を這って逃げる。もはや敵味方の区別もつかず、恐怖に彩られた顔を千歳に向けて「助けてくれ」と言った彼の後ろで、倒れた女が黒い灰になって風に舞った。
 その甘く、噎せ返るような匂いに、橘がまさかと口を押さえる。
「この匂い、死肉の……?」
 蜜のような甘さの奥に、消しきれない腐乱臭が潜んでいる。腐った葡萄を燃やすような、例えがたい匂い。ずっと分からなかったその正体を今、目の当たりにした気がして、千歳は胃の腑から込み上げたものを真っ青な顔で堪えた。
 そんなまさか。いや、けれど。
「千歳!」
 西鬼が死体で作られていたとすれば、ナーシサスから漂っていた腐臭にも、説明がつく。
 愕然として反応が遅れた千歳の前に、橘が飛び出した。彼の刀が斬ったのは、西華の制服を着た青年だった。だがその体からこぼれたのは血ではなく、真っ黒な灰だ。はっとして顔を上げた頭上に、千歳は無数の〈人間だったもの〉を見た。
「俺たちは今まで、なんてもんと戦ってたんだ……!」
 千歳の手を引いて飛び退いた橘が、震える声で言った。がしゃ髑髏が崩れ、骨と骨の継ぎ目から、頭蓋骨の裂け目から、死斑を浮かび上がらせた体が次々とこぼれ落ちてくる。老若男女も服装も実に様々の亡者たちが、互いに張りついた手足を引きちぎり合いながら、地面に降り立った。
 そうしてぐるりと、虚ろな目で辺りを見回し――歓喜の叫びを上げて、兵士たちに襲いかかった。


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