第二十三章 決戦前夜


 洗い立ての髪に愛用の櫛を通すとき、今日が終わっていく、という感覚が胸に柔らかな帳を下ろす。終わるということは、在ったということだ。今日も一日、自分がこの世界にいて、ささやかながら何かを成し、恙無く眠りに就くのだということをしみじみと思う。
 西華から戻ってから、その感覚が一段と強くなった。
 千歳は鏡に映る自分の黒髪を梳かしながら、そう実感した。当たり前に続いていた毎日から切り離されて、心に思うところがあったのかもしれない。
 香綬支部に帰ってから三日、目に触れる日常のものすべてを、西華に行く前よりも脆く、きらきらと星明りのように光るかけがえのないものに感じる。風景にも人にも物にも、ふとした瞬間に見入ってしまって、時間を忘れそうになることが度々あった。
 だがそんな内面の心境とは裏腹に、千歳はこの三日間、慌ただしい毎日を過ごしていた。西華から帰ったことで事情聴取を受けたり、隊長の離反により解体を余儀なくされたナーシサス隊からの移籍を行ったり、色々とやらなくてはならないことが山積みだったのだ。
 中でも千歳が持ち帰った「次の満月の翌日、西華が何かを起こす」という情報は、香綬支部のみならず東黎軍全体を大きく揺るがせた。本部によって大規模な防衛のための作戦が組まれ、香綬支部を中心とした国境付近の支部と兵営に、各地から全速力で援軍が送り出された。
 非常事態により、本来罰せられるはずだった橘は処分を延期。自室での謹慎処分にあったシランもこれを解かれた。千歳はシランを訪ねて、以前、彼を感情的に詰ったことを詫び、今回の件に関して何かお礼をしたいと頭を下げた。じゃあさ、とシランは微笑んで、
 ――橘少尉の傍に、いてあげてよ。
 ――え?
 ――彼には君が必要なんだよ。だから、帰ってきてくれて、ありがとう。
 君が帰ってこなかったら、僕の恩返しも無意味でしかなかった、と朗らかな調子で言った。感謝をしているのはお互い様だから、これでこの話はおしまいだ、とも。
 千歳にはなんとなく、橘がシランを戦力としては除外しているが、心の底から邪険にもできずにいた理由が分かった。戦争のない世界だったら、きっと彼は剣ではなく、その言葉や微笑みで、多くの人を先導する立場になっていただろう。
 そのシランが持たせてくれた血清剤によって、弟切は一命を取り留めた。取り留めたものの、彼は今、特別医務室の一室にいる。
 華蓮支部の追っ手を撒くまでは気丈に振舞っていたが、どうやらかなり相性の悪い毒を仕込まれていたらしい。夜になる頃には呼吸が荒くなり、高熱で意識が飛び始め、西華を出る頃にはもう一人で歩けなかった。橘が肩を貸し、何とか脱出して、そこからは交代で容体を診ながら馬に乗せて連れ帰ってきた。千歳たちの帰還を知って出迎えてくれた巴が担当看護婦となり、今も意識の戻らない彼を、付きっきりで世話している。
 彼がネリネの恋人だったことを、千歳は事情聴取で明らかになる前に、橘に告げた。橘は「そうだったか」と言って弟切の前髪をかき上げ、それきりじっと瞼を閉じた彼の顔を見つめていたから、これ以上の話は二人の間でされるべきだと判断し、詳しいことは何も言わなかった。
 橘も、この三日間はとても忙しそうだった。帰ってきた彼はまず脱獄囚として捕らえられ、そこから事情聴取を経て解放、小隊の隊長として作戦の一員に加わるという、扱いが二転三転する慌ただしさにさらされている。もっとも、そうなることは予測済みだったのだろう。満月の翌日とやらまでは働かされるに決まっている、と言いながら、昨日まで支部にいたかのように日頃のペースを取り戻した。
 そして、今夜はその満月である。
 カーテンを開けて窓枠に腕をかけ、千歳は空を見上げた。煌々とした、金色の大きな月が浮かんでいる。空から落ちてきたように近い、一点の曇りもない満月だった。明日が最後の日かもしれないなんて、嘘のようにこの夜は明るい。
 小さな抽斗に櫛を戻しながら、千歳は机の上に置いた時計を見る。時刻は間もなく、十時を回ろうとしていた。明日は朝から出動なのだから、早めに休まなくては。そう思っているのだが、思っているばかりで、頭も目も冴えてしまっている。
 ――東黎は直に終わる。
 ナーシサスはそう言い残した。日頃の西鬼による奇襲とは、一線を画す何かを計画していることは明白だ。明日の戦いはどうなるか、全く予想がつかない。力を発揮できるのかどうか。生きて戻れるのかどうか。もしかしたら、そんな心配がすべて無駄なくらい、何もかもが一瞬で壊れてしまうのかもしれない。
 あ、と脳裏に思い浮かべる、そんな隙さえなく。風景も、人も、物も消えて、自分も消えるのかもしれない。
(……もし、そうなったら)
 千歳はカーテンを閉めて目を瞑り、ゆっくりと深く、自分の胸の内に潜った。そこにあるぼんやりとした銀河のような靄を、直視するのに少しばかり勇気と時間を要した。見てしまったら、その銀河はたちまち輪郭を取り、無視できない輝きと引力を放って第二の心臓になると分かっていたからだ。
 その心臓の名前を、もう知らないわけではない。
 予想通り、音もなく形を取り始めた感情を見つめて、千歳はしばしぼうっと壁に寄りかかっていた。それからクローゼットを開き、制服やシャツの一番奥で、薄い水色の紙を被っている包みを引っ張り出して広げた。
 白いレースがこぼれ出てきて、千歳の腕にすべらかな生地が流れる。
 春に巴と、坂下の傍の店で買ったネグリジェは、ずっと包みを解かずにあったからか、店内に漂っていたラベンダーの香りがかすかに残っていた。
 袴を脱ぎ、帯を解き――真新しいネグリジェに袖を通す。秋の空気にひんやりと冷えた絹が重みに従って下へ落ち、肩や鎖骨をひたひたと覆った。七分の袖と踝丈の裾を、幅の広い、ゆるやかなフリルが飾っている。
 胸元に透けた白い薔薇のレースを指でなぞって、千歳は姿見の前に立った。
 似合っているのかどうかは、こういうものを着たことがなくて、正直に言ってよく分からなかった。
 ただこの服は本当に、夢のように綺麗だと思った。買いにいった帰り道に坂下の襲撃があったせいで、着たら苦しいことも思い出してしまう気がしてずっとしまいこんでいたが、やはり綺麗だ。きっと後にも先にも、今以上にこれを着るべきときはない。
 ゆっくりとドアを開けて、千歳は人気のない廊下に踏み出した。そうしてすぐ隣のドアの前で足を止めると、少しの逡巡の後に、ノックをした。
「誰だ?」
 中から返事の代わりに、声が問いかける。
 多分、開いているのだ。ノブに手をかけてドアを開けると、
「……千歳」
 橘が一瞬、驚いたように目を瞠って、言った。
 明かりはまだ点いていたが、彼はすでにベッドに入って本を読んでいた。文字を追って、眠気が訪れるのを待っていたのだろう。一時間ほど前にこの部屋を訪れたとき、机の上に積んであった本だ。彼がものを出しっぱなしにしているのが珍しかったから、ああ忙しいんだわ、と思ったのを覚えていた。
「どうした? こんな時間に」
 本を閉じて起き上がり、橘が訊ねる。


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