第二十二章 契約者


 弟切は、死ぬ気だ。ここで西華の兵士を足止めして千歳たちを逃がし、東黎にも西華にも、裏切り者として散るつもりだ。
「死んだら駄目、来て! 一緒に帰るの!」
「薊さん」
「来られるでしょう? これくらい、貴方も飛び越えられるんでしょう?」
 今にも飛び降りかねない勢いで塀にしがみついた千歳を、橘が引き剥がした。千歳、と諫めるように言われて腕を取り押さえられながら、どちらに言っているのかも分からないまま、お願い、と懇願する。
 駄目なのだ。二人をこのまま別れさせてはいけない。弟切を逝かせてはいけない。まだ何も――二人は、本当のことを話したことがないのだから。
「弟切さんを止めて」
「お前を西華に連れてきた男だぞ?」
「いいから止めて! ここで置いていったら、後悔するのは少尉なの」
 千歳の必死の訴えに、橘の表情が揺れ動いた。研ぎ澄まされた眸の奥で、彼は刹那、逡巡した。そのとき遠くから、三つの銃声が立て続けに響き渡った。はっと振り向いた弟切の足を、一つの弾が突き抜ける。
「弟切!」
 声にならない悲鳴を上げた千歳を引き寄せて、橘が叫んだ。
「来い! 上官命令だ」
「……っ!」
「俺の助けた命を、勝手に捨てるな!」
 曇りガラスが割れたように、しんと凪いでいた弟切の目に光が射した。それは千歳がこれまでに一度も見たことのない、巣から落ちた雛鳥のような、この世のどこにも拠り所を失った人の顔だった。橘が早く、と腕を伸ばした。
 片足の代わりに、剣を突き立てて力を込め――弟切は塀に向かって、地面を蹴った。
 宙を掻いて落下しそうになった彼の腕を、橘が掴んで引き上げる。そうしてすぐさま、千歳を抱え上げると、
「街に紛れます。こちらへ」
「了解した」
 弟切の指した方角へ向かって、一足に堀を飛び越えた。
 蓮の花を浮かべた水面が、ぐんぐん近づいてくる。下を向いたら落ちてしまいそうで、千歳は橘にしがみついて、彼の肩越しに空を見上げていた。銃弾が霰のように、塀の上を通過していく。逃がすな追え、表に回れ、と口々に叫ぶ声が聞こえた。
 橘の足が、褪せた緑の草地を踏む。二人はそのまま駆け出して、高い建物に囲まれた路地を旋風のように曲がった。
 と、斜め前を走っていた弟切の右足が、がくんと折れる。すぐに持ち直して走り出したが、羽織から覗いた着物の裾は流れた血で赤く汚れていた。
「弟切、一度どこかで傷を」
「……っいえ、今のうちに少しでも遠くまで行きましょう。どうやら、弾に毒が」
「効いているのか?」
「私の血は、研究し尽くされています。……こうなることを想定して、免疫のない毒を用意されていたのかもしれません」
 一度でも裏切りを働いた者は、裏切ることができる者だ。いくつの功績を差し出したとしても、たった一つの、その信用は永遠に手に入らない。西華は初めから弟切に保険をかけていたのだろう。
 千歳を片腕に担いで、もう片方の手でポケットを漁り、橘は取り出した錠剤を瓶ごと弟切に渡した。
「やる。血清剤だ」
「……良いのですか」
「ないよりはましだろう。礼はシラン少佐に言え」
 馬の鞍にかけてあった、と言って、橘はそれきり口を噤んだ。白い錠剤を見つめていた弟切が、意を決したように口へ放り込む。彼を生かす薬の、噛み砕かれる音が聞こえた。
「承知しました」
 市民で賑わう昼下がりの大通りが、正面に見えた。

 千歳が再び香綬支部の門をくぐったのは、それから三日後。西華に連れ去られてからちょうど一ヶ月後の、空の彼方に帰り遅れた東雲が棚引く、日の出のことだった。


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