第二十二章 契約者


 華蓮は西華の中でも、首都蘭条(らんじょう)に次いで活気のある町のひとつである。だが蘭条と違うのは、一般市民の居住が厳しく制限されている点だ。
 華蓮はいわば、兵士の町なのである。華蓮支部を中心に、小さな町の中に所狭しと建てられた住宅や商業・娯楽施設は、ほとんどが兵士とその家族のためのものだ。市民は兵士と共に働く者も含め、多くが近隣の町から出向いてきている。
 路地の陰からばたばたと、兵士の妻と思われる女が一人、靴を爪先に引っかけて慌ただしげに出てきた。
「お兄さん、お魚ある?」
「いや、もう……」
「あれ? なあんだ、売り切れかあ」
 こちらが何かを言うよりも早く、荷車を覗いて大通りへと駆けていく。昼食の魚でも焦がして、足りなくなったのだろうか――橘はその後ろ姿を見送ってから、また通りを歩き出した。
(新王都支部の周辺やここに来るまでの間に見た、一般市民の暮らしぶりと違って、ずいぶん裕福なんだな。この町は)
 道の端で露店の装飾品を眺めている女たちを横目に見て、つくづく感じる。皆、煌びやかではないが余裕のある服装をしている。
 香綬支部を出て馬で一晩と一日、新王都地区を避けつつ、西華の東端にある小さな町へ辿り着いた。そこから首都へ帰る学者のふりをして人力車や馬車を乗り継ぎ、さらに二日。橘は今日、出稼ぎの商人に扮して、ついに華蓮へ潜り込んだ。
 ――華蓮で通用する物価を、俗に華掛け、という。
 自分を日雇いした酔っ払いの商人の台詞を思い出し、なるほど確かに隣町とは物の値段が倍以上違うなと、ポケットの小銭を鳴らしながら辺りを見回す。彼に預かった魚だの貝だのを、橘は華蓮に入ってすぐ、適当な料理屋で全部売り払った。
 おずおずとした口の利けない男のふりをして紙を取り、隣町での値段を提示したら、あっという間にどれもこれも買い取ってくれた。華掛けを知らない、田舎から出てきたばかりの行商人だと思ったのだろう。店主の男は大層得をしたと思い機嫌が良く、また来いと握手をされ、怪しまれることなく店を後にした。
 おかげで身軽になり、助かっている。荷車が一杯では、あまり速く歩くと不審に思われかねない。一般人のふりをして、重たげに歩かねばならないのが厄介だったのだ。品物が入っていると、買いに来る客もある。うっかり口を利いてしまったら、東黎訛りが露呈しかねない。
 橘はそうやって、仕事を終えた行商人のふりをして街を歩き回りながら、あるものを探していた。ちょうどそのとき、探し物が目の前の路地から出てきて、通りを横切り、別の路地へと消えていった。
 ……二人か。
 よし、と鋭い目で背中を睨み、橘はそれとなく荷車を引く速度を上げる。昼を間近にした通りは人気が少なく、誰も橘に注意を払っていない。
 今だ、と荷車の下に隠してあった愛刀を掴み、橘は路地へと飛び込んだ。急に近づいてきた足音に気づいた二人組が振り返り、その顔が悲鳴の形に引き攣る。
「ぎゃ……ッ」
 どさどさと、折り重なって二人は倒れた。声は一瞬で、峰打ちに潰されて消えた。左右を見回して誰もやってこないのを確認してから、橘はごろりと二人を転がし、背格好の近そうなほうの上着に手をかける。
 カーキの胸に光る刺繍は、天の雲を纏う白虎。巡回の兵士だろう、西華軍の制服だ。
 ……シャツも襟にパイピングがあるのか。
 細かいな、とげんなりしつつ、これはこれでちょうどいいかと魚臭くなったシャツを脱ぎ捨てる。橘はその男から、下着と靴以外の服をすべて剥ぎ取り、手早く身につけた。傍らに転がっていた帽子を被れば、すっかり西華兵の出で立ちである。
 これで、支部の入り口をくぐれる。
(大方、支部のどこかに囚われているはずだ。中に入って情報を探り、居所を絞る)
 刀を拾い上げて上着の陰に隠し、橘はちらと裸になって伸びている男を見下ろした。近くに脱ぎっぱなしにしてあった、魚臭いズボンのポケットを漁って、
「……悪く思うなよ。これも運だ」
 微々たる売り上げを、男の顔の横に積み、さてと立ち上がった。


 冷たい水を含ませたタオルが、額にそっと下ろされる。熱砂が雨を吸い込むように、肌に染み入る心地良い清涼感で、千歳は転寝から目を覚ました。
「弟切さん……?」
「ああ、起こしましたか」
 衣擦れの音と水を絞る音以外、呼吸さえ聞こえないような静けさで動く。こんな人は一人しかいないな、と名前を呼んでみれば案の定、少し離れたところで温んだタオルを濯いでいた彼は、濡れた手を拭いながら千歳の傍へやってきて、顔を覗き込んだ。
「具合はいかがですか」
 問いかけに、千歳は曖昧な表情を浮かべて頷いた。弟切は近頃よくそう訊いてくるようになったが、おかげさまで、という気持ちと、貴方がそれを訊くのか、という気持ちが綯い交ぜになって、いつも答えられない。
 弟切も、そんな心情はとっくに承知の上なのだろう。いかがですか、は彼なりのおはようございます、と同じようなもので、千歳に具体的な返事を求めてはいなかった。
「鎮痛剤、効いていますか」
「多少は……」
「少し増やしましょうか。あまり眠れていらっしゃらないようですから」
 え、と驚いた千歳に、弟切は指で自分の目元を指してみせた。隈があるということか。そういえばここ数日、頭痛が酷いせいか、夢見が悪いからなあと両目に手を当てる。
 西華に囚われてから、まもなく一ヶ月。千歳はこの一週間ほど、熱病のような症状に侵されていた。いよいよ体内に蓄積されていた毒が底を尽き始めているのだ。髪も爪も、濁ったように艶を失い、頬も生気のない紫がかった乳白色をしている。手足に力が入らず、着替えと食事のときくらいしか起き上がる気持ちにもなれない。
 去年の今頃と、ちょうどよく似ている。
 違うのはこれが限界まで達したとき、死ぬのではなく、弟切のものになると決められていることだ。
「どうぞ。……起き上がれますか」
 人肌に冷ましたお茶を用意した弟切が、手を差し出した。肩を抱いて起こすと千歳が抵抗するのを知っている彼は、こうして千歳が自ら、助けを受けるか否か選べるようにしている。ぐ、と布団に手をついて、千歳は一人で起き上がった。
「ありがとう」
「……いえ」
「本当に思ってるわ」
 差し出されたお茶に口をつけて告げれば、朽葉色の眸はほんのわずかに揺らぐ。ネリネの話をしてからというもの、弟切と千歳の間で、何かが変わった。
 報復の道具として盗み出した物から、人へ。弟切は千歳を、薊千歳という一人の人間として扱うようになった。もっとも、彼は一貫して丁寧な物腰を崩さないから、傍目には余程じっくり観察していなければ分からない変化だ。だが当事者である千歳には、五感のすべてから感じ取れる。
 彼は今、迷っているのだ。自分の持ち出した、薊千歳という存在と向き合って、本当にこれで良いのかと葛藤している。自分の成したかったことは、本当にこれなのだろうかと――千歳に刻限が差し迫ってくるのを見つめながら、自問している。
 彼の出す答えが、千歳の命運を握っている。何を信じ、何を偽りとするか。その迷いに、最後の引き鉄を引けるのはきっと。


- 81 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -