第二十二章 契約者


(……いいえ、無理よ。自分で何とかしなくちゃ)
 脳裏に浮かんだ後ろ姿に助けを求めそうになって、千歳はそっとかぶりを振った。重苦しい痛みが、一拍遅れて雲のようについてくる。忠告を聞かずに手を振り払っておきながら、今さら信じたいだなんて虫が良すぎる。
「遅いですね」
「えっ?」
「昼食が遅れているようです。こんなことは今まで、なかったのですが」
 千歳は一瞬、自分が考えていることを口に出したかと思って、飛び上がりそうになった。昼食、という言葉に弟切が全く別のものを指していたと分かって、安堵に胸を撫で下ろす。
 そうなのだろうか。弟切は懐中時計を下げているが、この部屋には時計がないので、千歳は彼が教えてくれたときしか正確な時刻が分からない。以前は空腹で大体の時間を察することもできたが、近頃はあまり食欲もなく、その手は使えなくなった。
「様子を見てきます」
「急かさなくても平気よ」
「ですが、薬はそろそろ飲んだほうがよろしいでしょう? 空腹では効きも悪い」
 そう言われると、否定はできない。蘭鋳もきっと忙しいのだ、残してばかりの食事を催促するのも申し訳ない気がしたが、弟切は盆を持って立ち上がり、目元にかかった髪を耳へかけた。そのときだ。
 ――ガシャン、という何かが激しく壊れた音と共に、数発の銃声が響いて、消えた。
 横になろうと思っていた千歳が、慌てて身を起こす。弟切はじっと、音のしたほうを見つめて息を殺していたかと思うと、
「……来ましたね」
 独り言のように呟いて、襖を開けた。
「えっ、弟切さん……っ」
「ここにいてください。決して何か無茶をしないように」
 言うが早いか、何もかも置いて、弟切は外に出ていった。勢いよく閉められた襖に、待って、と叫んだ千歳の声はかき消される。千歳は畳に手をついて、襖の鍵が締められる音を呆然と聞いていた。
 後にはただ、置き去られた盆の上で、飲み残しの水面がゆらゆらと揺れている。
 わあっとまたどこかで、悲鳴のような叫び声が上がった。少しずつ、少しずつ、騒乱が近づいてくる。
(何が起こっているの)
 布団を握り締めた手が、得体の知れない恐怖に震えた。千歳は熱にこぼれる呼吸をできる限り潜めて、気配を小さく、石のようにして、じっとうずくまった。

 一体、何が入り込んだというのだ。
 今日も今日とて、洗い立てだというのに腐臭の染み込んだ制服に身を包んで、ナーシサスは壁に背中を預け、辺りに神経を張り巡らせていた。西華の一員として働き始めたはいいが、本来華蓮支部の所属になる予定ではないため、ナーシサスにはまだ部屋がない。千歳が無事に、弟切と契約を完了させ次第、彼らと共に蘭条へ移る話になっているのだ。
 そのため、実は千歳と同じ、この宿泊所の一室を居室としている。蘭鋳は皆瓜二つの顔をしていて気味が悪いが、作る食事は支部にある共同食堂のそれより遥かに美味い。あの食堂の料理は、材料にまで悪臭が染み込んでいるようでかなわない――そう重労働を抜け出して、昼食を摂りに戻ってきたところで、崩落音と銃声が響き渡った。
 侵入者か、敵襲か。どちらにせよナーシサスの頭にある問題はひとつだった。どうしたらこの状況から、生き延びられるか。もう長年、それ以上の行動理念はなく、またそれ以下の行動理念もない。生、それだけがナーシサスの欲望であり、欲望に従って、ここは騒ぎに関与する前に外へ出ていこうと思った。
 だが、生とは非常に貪欲な欲望である。
(……待てよ)
 出口へ向かって真っ直ぐに続く一本の道へ出た瞬間、ナーシサスの脳裏に千歳の姿が思い出された。あれは足枷をかけてあって、自由に逃げられないのではなかったか。
 手塩にかけて育てた貢物を、西華の皇帝は首都で楽しみに待っている。救い出して、無事に御前へ差し出せれば、きっと感心と信用を得られて、その後の生は一層の豊かさを約束されるに違いない。
 ナーシサスの中で、天秤が傾いた。ただ死なないだけの生など、求めてはいなかった。血と泥に塗れて生きるのではなく、眩しさで目の潰れんばかりの生を求めていた。華々しく、美しく。そのために屍の花束を捧げ続けて、やっとここまで辿り着いたのだ。
 労力を水の泡にしてなるものか。ナーシサスは踵を返して、奥の間へ向かって、来た道を走り出した。擦れ違った蘭鋳が何か言ったが、彼女らの言葉は人間のそれと思っていなかったので、風や犬のざわめきのように聞き逃した。頭の中にはまだ目にしたことのない、蘭条の城と、金襴の謁見室が広がっている。
 その御簾を跳ねのけるように、蘭鋳の腕を振り払って角を曲がろうとしたとき。
「こんにちは、少佐」
 ぐ、とコートの襟を掴まれて、首が絞まった。
 一瞬、何が起こったのか分からずに、時が止まった。背後に感じる人の気配に、ナーシサスの鼓動が、不気味に高鳴った。
 ゆっくりと首を巡らせて、ガラス障子に映り込んだ人影を確かめる。
 金の髪、鋭利な琥珀色の双眸、唇に浮かんだ細い月のような笑み。ナーシサスの青灰の眸が、これ以上なく大きく見開かれた。
「カーティ……ッ」
 まさか、と。その名を口にするよりも早く、橘はナーシサスをガラス障子に叩きつけた。木枠に嵌め込まれた菱形のガラスが衝撃で床に落ち、割れて、次々に甲高い音を響かせた。障子が外れて倒れ、粉々になったガラスを飛沫のように跳ね上げる。
 橘はその上にナーシサスを引き倒すと、鞘に納めた刀の先で鳩尾を一突きして、呼吸を詰まらせた。
「かっ、は……!」
 天井を仰いで跳ねた体に馬乗りになり、橘はナーシサスの眼前で刀を抜き払った。銀の光が視界を一閃し、殺される、と察したナーシサスが声の出ない口を閉じたり開いたりして、必死に首を振る。滝のような冷や汗が、彼の後ろに流した髪を根元から崩していた。
 橘は束の間、その姿を見下ろしてから、刃を返して自分のほうへと向けた。ナーシサスの目に、わずかな希望が揺らぐ。橘はその目からよく見えるように、左手の手袋を咥えて外し、愛刀を手のひらに押し当てると、
「やめ……ッ!」
 一思いに引いて、手のひらでナーシサスの口を塞いだ。滲んだ血が滴になり、一滴、二滴とナーシサスの口の中にこぼれていく。無理に声を上げたせいで激しく噎せ込んだナーシサスは、舌に流れたそれを吐き出せず、大量の空気と一緒に呑み込んだ。
 自分の喉から漂った鉄の匂いに、ナーシサスの表情が凍りついていく。やがてそれは引き攣るような苦悶に変貌し、嗄れた獣のような呻き声を上げて、ガラスの散った床を無茶苦茶に引っかいて悶え始めた。
 毒が回り始めたのだ。
「貴方のような凡庸な花には、本当にただの猛毒でしょう」
 傷口に残った血を舐め取って、橘は囁いた。
「焼かれるよりも、斬られるよりも、撃たれるよりも、沈められるよりも――貴方が殺めた誰よりも、苦しんで逝け」
 焦点を合わせようと彷徨っていたナーシサスの眸が、絶望に濁り、ぐるりと白く剥かれた。足元に縋りつく手を振り払い、橘は立ち上がって手袋を嵌める。カ、ティ、と泡を吹く唇が呼びかけた。見下ろしてたった一言、最後の挨拶を告げる。
「貴方だけは、……信じていたのに」
 その声がもう、ナーシサスに聞こえたかどうかは分からない。塵になったガラスを握り締めて真っ赤になった手のひらを跨ぎ、橘はさてと帽子を被り直した。
「ひっ!」
 奥に並んだ、客室と思わしき襖を次々に開けていく。部屋数は十もなく、年嵩の男が一人、軍刀を手に現れた橘を見て悲鳴を上げた以外には、どこも宿泊客の姿はなかった。この階ではないのか。通路で見かけた細い階段を思い出しながら、橘は最後の襖に手をかける。


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