第十三章 命の咲かせ方


「ケイ……?」
 寝息が手の甲をくすぐることは、いつまで待ってみてもなかった。
 沈黙が胸の鼓動を少しずつ、少しずつ速まらせて、頭の天辺から一筋の氷が滑ってくるように、血の気が引いていく。なんで、という短い言葉だけが、脳裏をふわりと舞った。瞬間、布団に置かれていたケイの手が力なくベッドから落ちて、
「あああああ――――……!」
 巴の絶叫が、花の香りを引き裂いて響き渡った。
「散華術を使ったのか。どうりで……」
 崩れ落ちた巴の横を通り抜けて、犀川が入ってくる。医師と看護婦は何が起こったのか分からない様子で、足元に花びらを溜まらせたまま、ドアの前に立って呆然としていた。千歳にも何があったのか分からなかった。
 ただ分かるのは、ケイがもう息をしていない。それだけだった。
「彼は命で、命を救ったのだ」
「誰の……?」
「分からないかね?」
 犀川が千歳を見下ろして、首を動かさず、視線だけで後ろを示す。それですべて、千歳にも理解がいった。
(自分の命を、代わりにして)
 どくんと、心臓が大きく脈を打つ。
(巴の命を、救ったんだわ)
 それこそが今、ドアの下で巴が声を上げて泣き叫んでいることの証拠だった。そうでもなければ彼女はまだ、起き上がって歩いたり口を利いたりすることはおろか、目覚めることさえできないはずだった。
 いつ目覚めるか分からない。目覚めるのかどうかも分からない。生きて戻っただけでも奇跡のような、怪我だったのだから。
 どんな手段を使ってか分からないが、ケイは巴に自らの命を捧げたのだ。千歳の話した短い言葉から、彼女の容体を的確に察して。千歳が医務室から戻るまでのほんの数分、一人になった時間を見計らって、その弱った命の火を、吹き荒ぶ花の嵐に変えたのだ。
 胸に打ちつける感情が強すぎて、これが悲しみなのか何なのか、千歳には名前をつけられなかった。ただケイは死んだのだ、という事実だけは、抗いようのない現実感を持って、真っ白な平原と化した心に足を下ろした。なぜなら彼は、巴のためなら躊躇わない。たった一つの命だって、笑顔で「いくよ」と、振りかぶって投げ出せる人だ。
 かさりと指先が何かに触れた。枕の下に挟まれていた紙と鉛筆に気づいて、千歳はそれを手の上で開く。折りたたまれた紙の中から、一羽の折り鶴が現れた。
 開いたほうの紙に書いてあった文字を、医師、看護婦、犀川――その場に居合わせた人々からの無言の注視を受けて、読み上げる。
「千歳へ。最後まで信じてくれてありがとう。この手紙を読んでいるときに、巴が起きていたらこの折り鶴を渡して。起きていなかったら、開かずに捨てて」
「わたくしに……?」
 包帯を巻いた足を引きずりながら、巴がふらふらと立ち上がってやってきた。千歳は彼女にケイの枕元を譲り、華奢な指が刻一刻と血の色を失っていく輪郭を辿るのを黙って見つめてから、差し出された手のひらに折り鶴を渡した。
 震える指先でゆっくりと、巴が鶴を開いていく。かさり、かさりときつく重なった紙の擦れる音が次第に緩んでいって、最後の三角形を開いたところには、
〈巴へ 寂しくなったら来てもいいよ〉
 たった一行、それだけの手紙が残されていた。
 一際大粒の涙がひとつ、落ちて染み込み、鶴の翼だった場所に穴を開けた。声にならない声を上げてケイの胸に泣き崩れた巴に、かけられる言葉など、千歳はこの世界のどこにもないと思った。犀川が花びらを一枚拾い上げて、眉間に翳し、黙祷を捧げた。
 桜の匂いは、涙の匂いに似ている。看護婦が静かに、ナーシサスを呼びに出て行った。


 桐の花言葉は、高尚、という。
「貴方もここにいたの」
「……千歳」
 兵舎の角を曲がった瞬間からかすかに香ってきた紫煙に、そんな予感はしていたが。若葉を茂らせた桜の下に立ち、一人じっと考え事をしていた様子の橘は、千歳が来たことにも気づかなかったのか、珍しく声をかけられてから振り返った。
「お前もか」
「ええ。……訓練の帰り」
 大弓を軽く上げて答えれば、橘はお疲れ、と合わせた眸をわずかに和らげる。千歳も礼を言って淡い微笑みを返し、桜の幹に黒檀の弓を立てかけて、彼の隣に立った。
「名前が入ったのね」
「ああ」
「桐尾、ケイ……」
 夏の風にそよぐ木の葉の陰の下で、艶やかな玄武岩に刻まれた真新しい名前を、そっとなぞる。桐尾ケイ。こうして文字になると、ケイ、と呼んでいた頃の響きとは別人のようだ。何だか不思議だわ、と屈めていた体を起こして、ぽっかりと穴の開いた胸を風が吹き抜けていく感覚に、千歳は衿元に手を当ててため息をこぼした。
 ここは慰霊碑だ。香綬支部で戦い、亡くなった兵士たちの名前が刻まれている。とはいえすべてを記しきることは到底できないので、名前があるのは軍曹以上の戦没者に限られる。兵長だったケイも本来ならここに載る予定はなかったが、生前の功績が考慮されて殉職による二階級特進を受けたため、最終階級が軍曹になり、名前が刻まれる運びとなった。
 訓練場へ行く道で、慰霊碑の前で作業が行われているのを見かけて、帰りに立ち寄ろうと思っていたのだ。ケイの他にも、今回の戦いで多くの名前がここに刻まれた。春になると満開の花を咲かせる、桜の大樹の下で、数えきれない魂が風に溶けて眠っている。
 肉体はここにはなく――支部の片隅に合同墓もあるにはあるが、ケイの亡骸は支部で火葬され、骨は父親が幽安へ持ち帰った。今朝早くのことだ。若くして前線を退いた元軍人であり、同じく数年前に前線を離れた橘の父の契約者でもある彼は、馬車に乗って夜明け前に香綬支部を訪れた。そしてナーシサスと橘にだけ挨拶をして、小さな包みを腕に抱き、馬車に巴を乗せて早々に帰っていった。
 千歳はそれを兵舎の窓から、無言で見つめていた。ケイの出発を見送りたかったが、彼の父親の心境を思うと、同じ現場から生きて帰還した自分に会うのは苦しみかもしれないと思い、部屋の中から見送るに留めた。葬儀のために一時帰省する巴にも、どんな言葉をかけたらいいか分からなかったというのもある。
 もしも自分がもっと強く、巴なら大丈夫だと言い切っていたら。ケイは今頃、別の選択をしていただろうかと考えずにはいられない。
「幻想を持ち出してまで、自分を責めるなよ」
「え?」
「お前がどう行動しようと、遅かれ早かれ、あいつは自分の命を使ってた。その可能性のほうが、遥かに高いんだ」
 考えていることを見通したような橘の意見に、千歳は黙ってこくりと頷いた。橘の言うことは、難しいけれど正しい。
 千歳が手を変え、品を変え、言葉を尽くして巴の状態をいかにオブラートに包んで話したところで、意識不明の重体だったことに変わりはないのだ。歩けるようになれば、ケイは真っ先に彼女を見に行っただろう。そうして生きてはいるが、その灯火がいつ消えるともしれないことを感じ取って、迷わず命を差し出しただろう。
 散華術――魔術の扱いに熟練した花が一生に一度だけ使えるという、今は口外することさえ禁止された、最上の魔術を使って。彼は巴に命を与え、見事に彼女を生き返らせた。犀川が言っていた。この術は三十年以上前に、花の生きる権利を守るため、禁術に指定されたものなのだと。


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