第十二章 激戦


「逃げろ!」
 わあっと、薬品庫にこもっていた兵士たちが我先に逃げ出す。ハルピュイアの鳴き声が蒸した空気を切り裂き、縺れて転んだ者の手足が、廃棄場に投げ捨てられたパイプのようにごろごろと辺りに転がった。それを踏みつけて逃げる者があり、引きずって逃げようとして鉤爪の餌食になる者もあり。
 一羽のハルピュイアが、狭い扉に体を捻じ込もうとして、挟まれてギャアギャアと鳴いた。その暴れる脚の間を通り抜けて、千歳はケイの腕を引っ張り、扉の外に出た。
 誰かの胸から外れて落ちた無線機が、ふいにどこかの会話を拾う。
『こちら橘。百合川、シラン両大尉に応答願う。現在ハルピュイア型七羽と交戦中。至急増援を――』
 振り下ろされた鉤爪が、その無線機を廊下の彼方へ蹴飛ばした。

 ――これは何かの悪い夢ではないのか?
 燃え上がるバラックの前に座り込んで、唇を一文字に結んだまま、シランは丘の下で繰り広げられている光景を、ただ見つめることしかできなかった。魔術が色とりどりの砕けたガラスのように舞い散り、騎蜂兵がその中を、まさしく攻撃に身を転じた蜂のように飛び回っている。だがその小さなシルエットは、遠吠えを上げた獣の灰色の体に突き飛ばされ、前足に踏まれ、顎に砕かれ、見るも無残に赤く染まっていく。飛べなくなった影があちらにもこちらにも、双眼鏡をどこまで巡らせても至る所に落ちていた。
「ああ……」
 愕然とそれを下ろして、乾いた目を彼方へ向けて瞠りながら、シランは腕の中に横たわった百合川の肩を、痣になるほど強く掻き抱いた。黒髪をだらりと垂らした彼女の顔は、そんなふうに苦痛を受けても表情一つ変わらない。
 転がるように仰け反った首の、ぞっとするほど白い喉には、先刻まで透き通った呼吸と凛とした声が通っていたのに。思考と現実がばらばらになってしまって、脳が事態を呑み込みきれずに固まっている。
 一体、何が?
『こちら一階、――、至急――――』
『包囲部隊――、シラン大尉に……願う。――につき、救援を――』
 無線機からは各隊の指示や救援を求める声が、戦闘音に途切れながら、止まない雨のように降り注いでいた。応えなくてはと思って、丘の下に待機させていた部隊を送った。だがその部隊からもすぐさま、劣勢の報告が入り――あとの言葉を理解することが、シランにはもう不可能だった。
 頭の中が凍土に侵されたように冷たく、真っ白に染まっている。手足が痺れて、自分で瓦礫の下から抱き起こしたはずの百合川の体が、石のように重くて動けなかった。無線機は膝の前に転がっていて、まるで未知の生き物のように、実に様々な声でシランに語りかける。
 大尉、指示を、と。大尉、救援を、と。
「シラン大尉」
 その言葉が貴方を呼ぶ信号ですよ、とでも思い出させるかのように、護衛についていた兵士の一人が肩を叩いた。
「お逃げください。どうか、その者も一緒に」
 軍帽を引き下げて、彼が示した視線の先を追う。そこにはシランの腕章を腕に巻きつけた兵士が、蒼褪めた顔をして座り込んでいた。
 君は。頭の奥にその問いが生まれた気がしたのに、言葉に起こして喉を突き破るまでに時間を要してしまった。兵士は微笑みを一つ残すと、軍刀を片手に、星のように丘を駆け下っていく。彼が仲間たちを救いにいったのだとシランの脳が理解して、瞼の縁に熱い滴が漏れ、だめだ、と口をついて出た頃には、彼の姿はもう木の葉の一枚に紛れて見えなくなっていた。
『こちら犀川。白虎型を撃破した。死者、重傷者多数、南輝の軍勢は約二千と見られる。これよりは兵営を放棄し、撤退を行う。各隊、青興へは戻られぬよう。繰り返す。我らは兵営を放棄、撤退する――』
『こちら橘。シラン大尉、百合川大尉――誰か、聞こえないか!』
 無線機から、聞き知った人の声がしているような気がした。だがシランはそれに、どう答えることもできなかった。何をどう答えて、何を動かしたらいいのか。凍った頭で必死に考えても、皆目見当がつかない。
 ――だって。
 丘の先に視線を向けて、は、と掠れた息を漏らす。
(助けにいける部隊なんて、どこにいる?)
 ワーウルフの遠吠えが、丘の上までこだましてくる。目に映る場所のすべてが、今や刻一刻と赤く塗り潰されていく戦場と化していた。

『一階、聞こえるか。撤退だ』
 壊れてしまったと思った無線機からふいにこぼれた橘の声に、千歳は思わず天井を見上げた。絶え間なく響く戦闘の音が、二階もかなりの苦戦を強いられていることを伝えてくる。すでに撤退を決めていた一階の面々に、自分たちの判断は間違いではなかったという安堵の気配が広がった。
 ちょうど木兵が一か八か、ハルピュイアを緑の檻で絡め取り、わずかな足止めに成功したところだった。血の混じった咳を二つ、三つして、無線の音声を聞いたケイが口を開く。
「西の非常階段を上がって、踊り場に」
「おい、何言ってる。撤退命令が出たんだ、今さら上に行って合流することない」
「違う」
 ケイは薬品庫を出た直後、ハルピュイアの鉤爪を背中から受けて、かなりの深手を負っていた。日頃の彼だったら難なく避けられたはずの、振りの大きな攻撃だった。口を利くと傷が痛むのだろう、唇をきつく噛みしめながら、壁に手をついて立ち上がる。
 千歳は急いで手を貸した。青い目が一瞬、千歳のほうを見て、強い眼差しで皆を見渡した。
「踊り場の出口を使うんだ」
「は? そんなもの、作戦書にはなかっただろ」
「載ってない。けど……」
 早く、と。それ以上詳しく説明することができそうになかったのか、ケイはふらつく足で廊下を歩き出した。西の階段には今、がらんどうの檻が開かれているだけだ。敵の気配はない。
 千歳は彼に肩を貸して、言われるままに西へと進み始めた。そうして十歩ほど歩いたところで――振り返って、震える声で訊ねた。
「どうして?」
 ギャアギャアと喚くハルピュイアの前に立ち止まったまま、仲間たちは一人もついてきていなかった。足に根が生えてしまったみたいに、動きを止めて佇んでいる。誰に訊ねたのでもなく、全員に問いかけたのだが、誰も千歳と目を合わせようとすらしない。
 やがて一人が顔を上げて、自棄になったように言った。
「俺はもう、そいつを信じられない」
 それは薬品庫で、最初にケイを指差した兵士だった。黒い眸の奥に、深い疑念の揺らぎが灯っている。彼は戸惑いの表情を浮かべた千歳を睨み据えて、感情を磨り潰すように奥歯を噛み締めると、
「この期に及んで、踊り場に何があるっていうんだ。悪いが、そこにも何もありませんでした、って未来しか見えない。もう無理なんだ。騙されるのも、信じてぬか喜びするのも沢山だ。俺は自力でここを出る」


- 49 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -