第十二章 激戦


「はあっ!」
 千歳は弓を左手に抱えたまま、三羽のハルピュイアに向かって、大きく右手を薙ぎ払った。途端、蛇のようにうねる炎が廊下を塞いで、彼らを目眩ましする。
 女学校時代に習っていた牽制のための魔術の使い方が、こんなところで役に立つとは思わなかった。ナーシサス隊に入ってからほとんど使ってこなかったが、何かのときのためにと、時々は弓を使わない訓練もしておいたのだ。
 そうしている間に、先頭を切って走っていた兵士が薬品庫のドアを開けた。全員、なだれ込むように暗い室内へと駆け込む。最後になった千歳の腕を、誰かが引っ張り入れて、ドアを閉めた。そのまま背中を張りつけて、蹴破られるまでの時間稼ぎに体重をかける。
 ピピピ、という音が人群れの中から漏れ聞こえた。
「開かないぞ」
 部屋の奥で、小さな明り取りの下のパネルを操作していた兵士が、焦ったように言った。えっと声を上げて、ケイが人をかき分けて入っていく。道が自然に開き、白いコートを纏った彼の背中に、全員の注目が吸い寄せられた。
 ピピピ、と抑揚のない電子音が、ケイの手元から響く。
「……冗談でしょ? ここの暗証番号は、敵に乗っ取られても脱出ができるように、管制室でも変えられないようにできてるって……」
 声音が固く震えて、最後のほうは消え入るようだった。ノブを捻る音が沈黙の中に何度も響き、しかし鍵穴の回る音はいつまで待っても聞こえてこなかった。千歳は近くに立っていた兵士に扉を任せて、ケイの傍へ駆け寄った。元から白い横顔が、血の気をなくして暗がりの中に光るほど浮き立っている。
「なんで……っ、なんで、こんなに何もかも違ってる!」
「ケイ、落ち着いて。指が滑ったのかも」
「三回も?」
「……っ、とにかく、もう一度入力してみれば」
「だめだよ、これ以上間違えると全部の出口にロックがかかる。どうして……!」
 ダン、とケイの拳がドアを叩いた。彼の叫びに答えを返せる者などいなかった。この場において、彼以上に新王都支部を知っている人間はいないはずだった。
 何か、何か思い当たる番号はないか。記憶を篩にかけるように、ドアに手をついて数字の羅列を暗誦し始めたケイの胸元で、無線機がザザッと音を立てる。
『こちら青興兵営、犀川』
 一瞬、誰もが橘かナーシサス、あるいはシランであると期待した。予想していなかった名前に、わっと湧きかけた声がすぐさま戸惑いに変わる。
 犀川はまるでその困惑を読んでいるかのように、ざわめきが静まるのを見計らった上で、深い呼吸をひとつ置いて切り出した。
『新王都支部の全隊に告ぐ。兵営は襲撃を受けた』
 すう、とケイの眸の奥が、凍りついた。
『敵は白虎型西鬼。それと、南輝の軍勢』
 ――南輝だって?
 千歳の目が、思わず丸くなった。あちらでもこちらでも、兵士たちが初めて聞いた言葉を確かめるみたいに「南輝」と繰り返していた。
『白虎型西鬼を引き連れて東の森から現れ、南輝と、西華の旗を掲げて突入を図ってきた。兵営は現在、交戦中。各隊との連絡は、混乱しており――』
 キイイ、と金切り声が犀川の声を断ち切った。時の止まったように静まり返っていた室内の視線が、一斉に扉のほうを向く。頭突きか足蹴りか、扉を叩く音が立て続けに響き渡った。ハルピュイアが外で、獲物を求めて暴れているのだ。
「どうなってるんだ……! こんな敵がいるなんて、聞いてない」
「どうにか外へ出られないのか? 扉が破られたら、一貫の終わりだぞ」
「南輝が西華と同盟を組んだのか? どうしてそれが、兵営の場所を知ってるんだ」
「こっちの情報が洩れてる。作戦の予定も、兵営の場所も」
 誰に問い誰に答えるともなく、兵士たちが口々に、礫を飛ばすように言い交わした。声が声を呼び、言葉が言葉を引きずり出し、嵐の風のようにあらゆる発言を巻き込んで膨張していく。
「内通者がいるんだ。俺たちの中に」
 渦巻く暴風の中に投げ込まれた一声が、辺りに水を打った。嵐がしん、と消え去り、暗がりの中で目線だけが、互いに相手の存在を見定めるように動き回る。
 やがてその目が一つ二つ、三つ、四つと動きを止め始めて、
「……ていうか、さ」
 一人の兵士が、千歳を指差した。
「え、何?」
「お前だったら、全部一人でできるよな。……東黎に嘘の情報流すのも、西華に東黎の情報流すのも」
 言われた言葉の意味が分からずに瞬きをすると、迫ってきた指が額の横を通り抜け、ぴたりと止まる。
 千歳は彼らの目が向かっているのが、自分ではなく、自分の後ろでドアノブを握りしめているケイであることに気づいて、頭の先から血の気が引いていくのを感じた。同時に爪先から、熱い血潮が湧き上がってくるのも感じた。
 そんな、まさか。信じがたい気持ちで自分たちを囲む仲間に視線を巡らせ、かぶりを振る。
「嘘でしょう? そんな……、ケイを疑ってるの?」
 訊きながら、千歳は心のどこかで、誰かが「そんなはずないだろ」と言って自分の言葉を笑い飛ばしてくれることを期待していた。だがその誰かは、いつまで経っても現れず――壁に沿って棚の作りつけられた薄暗い薬品庫の中を、千歳の目が端から端まで、受け止めてくれる人を求めて往復した。重い沈黙が、見えない力となって両肩に圧しかかる。
 胸の内で、頭の先から下りてきた凍りつく恐怖の血と、足の先から遡ってきた燃え上がる怒りの血とが、ぶつかりあって間欠泉のごとく噴き上がった。
「やめてよ。命をかけて任務に当たった人なのよ」
「だけど」
「裏切り者はケイじゃない! 皆しっかりしてよ、仲間でしょ? 第一、ケイが企てたことだとしたら、犀川隊が……巴の部隊が巻き込まれるはずがないじゃない!」
 反論を遮って叫んだ千歳の声が、大きく震えた。犀川の無線の奥から聞こえてきた、混乱に泣き叫ぶ悲鳴の数々。万に一つ、例え話としてケイが東黎を裏切るのだとしても、巴を危険な目に遭わせることなど考えられない。彼が謀反者であったなら、巴だけはどんな手を使っても戦場から遠ざけているはずだ。
 たかが半年、傍で見てきただけで、自分にはそれが疑いようもなく分かる。けれど。
「どうして、分からないの」
 こんな簡単なことが。絞り出すように言いながら、千歳は両腕を広げてケイを庇った。刺すような疑惑の視線に、これ以上、彼を曝させるのは耐えられなかった。その背中で、何か言わなくてはと息を吸いこんでは吐き出しながら、ケイはまだドアノブを片手でいじり続けている。
 まるで錆びついた金属が何かの拍子に動いて、本当は開いていた鍵が、奇跡的に回る可能性に賭けているみたいに。
 そんな奇跡が起こるわけないじゃん、と。だからほら、別の方法を考えようよと、日頃なら誰よりも早く言い切ってくれそうなケイが。今、彼を覆う冷静の殻を粉々に罅割れさせて、こんなにも必死になっているのに、どうして疑えるというのだろう。悔しさで胸が張り詰めて、何の意味もない言葉を叫んで、泣きたい気持ちがせり上がってきた。
「扉が破られる……っ!」
 その胸が裂けるよりも一瞬早く、薬品庫の扉が激しい音を立てて蹴破られ、血の色の通わない女の顔が三つ、扉の中を覗き込んだ。


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