第十一章 新王都支部へ


 橘のつけていた無線機が、ザザッと音を立てた。
『こちら新王都支部、北東七百メートル地点、シラン。無線の最終テストを行っています。聞こえますか』
『こちら突撃部隊、橘。聞こえます』
『青興兵営地、犀川。問題ありません』
 橘の応答に重なるように、別の地点からの声がひとつ、答えた。は、と橘が眉間に皺を寄せたのを、千歳は見逃さなかった。
 犀川は香綬支部で唯一、支部長の雨宮と同格の大佐の階級を保持する男だ。かつては花繚軍の優れた魔術師だったが、医者の家系でもあり、五十代に差しかかったことをきっかけに前線から退役。数年前、衛生兵として部隊を率いるようになったと聞いている。上下関係に厳格な階級主義者で、橘のことをあまりよく思っていない。
 巴が所属する、犀川隊の隊長だ。
 犀川の声を聞いたケイの表情が、わずかに強張った。犀川がいるということは、そこに巴もいることを思い出したのだろう。この一年半余り、犀川隊は東黎の外へ出ることがなく、基本的に支部の近郊での任務に当たってきたという。つまりは巴にとっても、支部を離れた場所での戦いは初めての経験なのだ。
 無線機を握りしめたケイの腕に、そっと手を当てて、千歳は言った。
「大丈夫よ」
「千歳?」
「巴、しっかりしてるから。場所が変わったくらいで、冷静さをなくすことなんてないわ。私たちが全力を尽くせば、兵営が戦いに巻き込まれることもない」
 ケイが驚いたように瞬きをした。それから唇に笑みを浮かべて、まあね、と答えた。
 兵営は行き帰りの中継地点や、怪我人の治療所であることの他に、万が一、戦況が不利になってこちらが追われる側となったとき、撤退戦を行う砦でもある。最前線ではないと言ったところで、心配になるものは仕方ないだろう。
 兵営を戦いの場にさせないためには、ここで勝つしかないのだ。守るためには、勝つしかない。まさしくこういうことなんだわ、と橘の横顔を見上げて、千歳は納得した。
「全員、準備はいいな? まもなく作戦開始だ」
 木陰に立って懐中時計の針を見つめていた橘が、そう告げた。十、九、とその声がカウントダウンを刻み始める。いよいよだ。
「三、二、一――出撃!」
 七月二十七日、午前九時ちょうど。号令に合わせて、突撃部隊が草葉の陰から一斉に立ち上がった。門の前で談笑していた二人の兵士は、すぐに異変に気付いて銃を向けた。
 自動掃射される銃弾に向かって、ケイが右手を大きく薙ぎ払う。途端、見えない風の壁が弾を食い止めて、何十というそれを草むらに払い落とした。
「東黎軍だ!」
 一人が叫び、一人が背中を向けて走り出す。集団を離れて、橘が逃げていく男を追った。残された男は、目についた橘に照準を向けた。その銃口が、みるみるうちに伸びてきた木に絡まれ、鈍い音を立ててひしゃげる。
「ア……」
 その木は、男の足元から伸びていた。巨大な洞を抱えた幹が、男の全身を一口で呑み込む。後には大樹が一本、何十年も前からそこに立っていたかのように枝葉をそよがせているばかりだった。
 ナーシサスが、さて、と伸ばしていた手を扉に差し向け、
「作戦通り、突入するとしよう」
 軍刀の血を風に払った橘が、正面入り口の扉を開けた。

 深紅の口紅の、生まれたときからついていたような女である。
 百合川しづきを一言で表すなら、赤子だった頃の想像がつかない人だ。凛とした鼻筋の高い横顔も、緩むことを知らない背筋も、皺ひとつないが使い古されていることは分かる制服も、無駄のない筋肉に模られた手足も。すべてがあまりに完璧すぎて、この人がまだ言葉も知らず、善悪も知らない幼子だった頃など、考えても考えつかない。ひるがえる外套の裏の、紺色が一層引き締まって見える、真っ黒な髪。
「なんだ?」
 片側に寄せたその長い髪が、うねりながら風に吹かれるのを眺めていたシランは、百合川の視線がいつのまにか自分に向けられていたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。
「いいえ、何でも」
「では、作戦に集中していろ」
 間髪入れず返ってきた答えに、目線を正面へと戻す。新王都支部の裏手に当たる、北東七百メートル地点。ここは小高い丘になっていて、支部を建設するときに作業員が使ったものの名残か、崩れかかったバラックが三つほど残されている。屋根に上って双眼鏡を使うと、支部の一帯がよく見渡せた。
 三十の部隊のうち二十を、支部の左右にそれぞれ配置し、残りの十を丘の下に待機させて。百合川と二人、わずかな護衛を伴ってかれこれ三時間はこの場所に立っているが、挨拶以外で言葉を交わしたのは今が初めてだ。
 ……橘少尉みたいだなぁ。
 突撃部隊の先頭を切って躍り出た影を双眼鏡の中に収めながら、シランはふうと、柔らかな口元から溜息をこぼした。ストイックな人間は好きだ。尊敬できるし、信用もできる。でも、だからこそひしひしと感じる。
 ストイックな人間は、自分のような人間が嫌いだ。
「お前の親父は、どこで何をしてる」
 ふいに、百合川が目を双眼鏡につけたまま訊ねた。
「香綬支部で、我々の帰還を待っています」
「はっ、やはりな。作戦書には名前が載っていたが、来るわけがないと思った」
 吐き捨てるような台詞に、シランはただ、曖昧な微笑みを返した。彼のそれは荒廃したバラックの中にあって、まるで映画のワンシーンでも観ているような錯覚を起こしかねない美しさがあったが、百合川は一片たりとも見ようとしなかった。そういう人だからこそ、尚のこと、本当に美しいのだとシランは思った。
 双眼鏡を当てていても、わずかな隙間から差し込んでくるような眩しさ。それは自分がどれほど求めても手に入らない、本物の輝きだ。
「戦場に出ない軍人など、軍人ではない」
「……ええ」
「お前は軍人なのだろうな? そうでないなら、足手まといだ」
 眩しくて、あまりに眩しくて、目の奥が痛む。シランは何も答えずに、瞬きをするように笑った。百合川はそんな彼を見て、眉ひとつ動かさず、会話をそれきり終わらせた。
 侵入者を知らせるビーッという警報音が、新王都支部からけたたましく鳴り響いた。

 ザン、と眼前に振り下ろされた銀色を追って、鮮やかな赤が噴き上がる。
 呻きと共に迷彩服が崩れ落ちて、千歳は思わずその惨劇から目を逸らした。と、唸り声がすぐ真後ろで聞こえて、慌てて弓を構える。
「千歳!」
 飛びかかる獣の前足がスローモーションのように視界へ迫ったかと思った瞬間、風がその横腹を殴って、西鬼の体を石の壁へ叩きつけた。ギャウ、と犬のような悲鳴を上げて、黒い肢体が霧散していく。あちらでもこちらでも、同様に、倒された西鬼が甘い臭気を放って消えていった。
「平気?」
「ケイ……、ごめんなさい、助けられたわ」
 申し訳なさそうに眉を下げた千歳に、ケイは返事の代わりに笑みを投げた。そうしてまたすぐに、次の敵へ向かって魔術を放つ。千歳も体勢を立て直して、剣を落として丸腰になっている騎蜂兵に襲いかかろうとしている黒犬を、炎の矢で射抜いた。間一髪、彼の目と鼻の先で牙が消失する。
「番犬なんて、前はいなかったはずだけど」
 攻撃の手を緩めずに戦いながら、ケイがぼやいた。彼がいなくなってから半年の間に、新しく導入されたものなのだろうか。


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