第十一章 新王都支部へ


「別に? 僕、優秀なスパイだったからね」
 大したことでもなさそうに、ケイが言う。本当にそうだろう、と千歳は思った。彼の作成した地図に、記されていない道はきっとない。すべての逃げ道は蜂花に塞がれている。そのための諜報だ。
「少尉とね、このあいだ話したの。この戦争は、誰が何を得るための戦争だと思う? って」
 千歳の言葉に、遠くで繰り返される訓練生の合同練習を眺めていたケイが、視線を戻した。全兵に向けた通達の前夜、橘がこっそり、今度の戦いについて教えてくれたときに話したことだ。
「あの人、なんて?」
「得るためじゃなくて、今より何も失わないための戦争だって。きっと誰もがそうじゃないか、って。大帝とか、王都とか、もうそんな遥か昔の幻みたいな遺産を得ようと思って戦ってるわけじゃなくて、ここで敗けたらこれまでの悲しみに対する意味とか、守り抜いてきた暮らしとか、何もかもが壊れてしまうから誰も後に退けないんじゃないか、って」
 ――ミドルネームはいつも「F」と省略しているが、本当は「フィクセンリッツ」という。大帝戦争の以前、北明で広く使われていた名前だ。
 失わないための戦争、という言葉を聞いて押し黙ってしまった千歳に、沈黙を接ぐように、橘が明かしてくれた。
 橘は東黎の名。ミドルネームを継ぐのは南輝の文化。そしてカーティスは、先々代の当主から譲り受けた北明風の名だが、先祖の名を継ぐ文化は元を辿れば西華のものだ。
 たったひとつの名前からでも、大帝戦争に突入する前の、王都と四つの都による文化交流が、いかに自由で豊かなものだったかが窺える。四つの都はそれぞれに栄え、独自の文化を作り上げていたが、人々は風や川の水のように、その中を自由に流れていた。今、分断されて戦っている相手も、遠いどこかの時代では友人であり、恋人であったかもしれない。親族であり、兄弟であったかもしれない。
 そう思うと途端に、この戦争の意義は紫煙のごとく、細く揺れて消えかかってしまう。
 それでもまだ、戦うのはなぜかと言ったら。
 ――剣を置いたら相手も剣を置くと、信じることができないからだ。皆相手の心の中に、一つや二つは復讐の火が燃えていることを分かっているからだ。そこに悲しみの燃料を撒いたのが誰であれ、自分もどこかに撒いてきたことには変わりないと分かっている。もう終わりにしようなんて、今さら都合が良すぎて誰も言えないんだ。もしそんなことを言われたら、俺だって、分かったと剣を棄てるふりをして心臓を一突きにするだろう。
 物事には、手遅れというものが存在する。この戦争はもう、何の決定打もなくやめるには、多くの人を傷つけすぎたのだ。今さら終わりにしたところで、行き場のなくなった悲しみが、燃え上がる炎の塊となって爆発するのは避けられないだろう。そのとき、戦争がなかったら、その爆風はどこへ向かうのか?
 答えは個人か、国の内側だ。
 無差別な復讐が罪のない人々を襲い、歯止めの効かない内乱が国を中から食い荒らす。そうなったら、もはや何のために終わらせた戦争なのかも分からない。何もかも失われる。国も街も、人も、志も、残された命も。戦い続けた意味も。
「守るためには、勝つしかない、か」
「ええ」
「あの人らしい収め方だね。参考になった」
 あっさりと言ったケイに、千歳はうん、と頷いてから、ああそうかと悟った。感情の落としどころを模索しているのは、ケイも同じなのだ、と。彼は千歳にとって、いつだって頼りになる上官で、手を引いてくれる先輩だった。でも、心はごく普通の、十八歳の少年なのだ。
 自分の仕事が東黎を勝利に導き、その裏で、何百人という西華の人間の命を陥れる。身分を偽っていたとはいえ、顔を知った人もいるだろう。親切にしてくれた人もいるだろう。
 それらをすべて裏切るのが、「優秀なスパイ」たる彼の使命だ。
「ケイ」
 さて、と訓練に向かおうとした背中を呼び留めて、千歳は思わず口を開いた。
「なに?」
「私はね、正直まだ、橘少尉みたいにしっかりした考えは持てないの。ここに来たときは色々あって……今とはずいぶん心の状況も違って。東黎のために、って口では言うけど、本当は戦争のことなんてあんまり考えていなくて、自分のことでいっぱいいっぱいだった」
「ふうん?」
「だからね、まだ曖昧でグラグラしてて、全然上手く言えないんだけど」
 風に揺れる黒髪の間から、深い海のような目が、まっすぐにこちらを見ている。千歳は初めて、ケイが自分に対して、導くのではなく導かれるのを待っている、と思った。年月をかけて整理された橘の言葉には及ばないかもしれないが、拙くても自分の言葉で、彼に何かを伝えなくてはと直感した。
 この人は今、生きていてもいいんだと、誰かに教えてほしいのだと。
「私は、そんな私をこれまで大事にしてくれた人たちを守りたいの。塞いでいた目を開けて、ちゃんと気づいたの。自分がたくさん、目に見える剣だけじゃなく、見えない手でも守られてきたんだってことに」
「千歳……」
「今はその人たちのために、戦おうと思ってる。……貴方も、だからね」
 つり目がちな眸が大きく瞠られて、芯に光が、一本の矢となって突き刺さった。ケイはまるで眩しがる猫のように、クス、とその眦を細めて、
「今さら分かったの、ばぁか」
 いつもの調子で、そう言って背中を向けた。


 揺れ動く深緑の木の葉の奥に、ライフル銃を手にした兵士が二人、迷彩服に身を包んで歩き回っている。暑さに脱いだ帽子で首元を扇ぎながら、右に左に歩いていっては時折中央で言葉を交わす。
 彼らの背後には開かれた鉄製の門が聳え立っており、その奥には巨大な石の塊が鎮座していた。真四角の型に、この世の灰色をありったけ詰めて抜いたような、どっしりとした外観である。屋根に西華の国旗が掲げられている以外、壁も入り口も、一切の色彩を持たない。彫刻による、模様と呼べるような装飾もない。
 新王都支部はそんな、いっそ不気味なほどの静けさで固められた建物だった。
「全員、地図は頭に入っているな?」
 ナーシサスが言って、その場に集まった全十隊の面々を見渡す。夜明けに青興の兵営を出て早七時間、高まり続ける緊張と共に街を迂回してこの場所へ進み続け、先刻ついに通信兵から、すべての部隊の配置が整ったとの報せを受けた。出撃の予定時刻が、刻一刻と迫ってきている。千歳は大弓が木陰から覗かないよう、慎重に持ち替えて、手にを嵌めた。
「今回の作戦では、各隊に四つ、無線機を渡してある。我々突撃部隊は建物の中に入ってしまうため、外の様子が一切分からない。預かった者はそれを使って、常に外からの情報を聞き取り、必要に従って周囲の者へ指示を伝えるように」
 はい、とあちこちから声が上がる。ケイが隣で、斜革につけられた無線機を外して、最後の確認を行った。
 ナーシサスの隣に立った橘も、同じように無線機を確認している。一台は自分のもの、もう一台はナーシサスのものだろう。突撃部隊の全体を率いるのは、この二人だ。橘が騎蜂隊を、ナーシサスが花繚隊を先導して動かす。
 包囲部隊を率いるのは百合川という幽安の花繚軍大尉と、香綬のシランである。彼らは外で蜂花それぞれ十五の部隊を引き連れて待機し、突撃部隊と無線機で連絡を取りながら、西華兵との戦闘に臨む。内部の戦況次第では増援を行い、後半には部隊を分けて、西鬼に関する実験施設の探索にも人員を裂く。


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