第二十二章 契約者


 蘭鋳だ。千歳の脳が彼女を認識するよりも早く、しなやかな弾性を持った鋼のような脚が振り上げられた。危ない、と本能が目を瞑る隙もなく、本物の鋼がそれを一閃する。
 橘があまりにも躊躇なく蘭鋳を斬り捨てたので、千歳は一瞬、背筋をぞっと、衝撃が走り抜けるのを感じた。だが崩れ落ちた蘭鋳の体から、覚悟した赤は噴き出さなかった。
 代わりに黒く、甘く臭う灰がはらはらと舞い始め、あっという間に涼やかな顔(かんばせ)が風に攫われていく。
「う、うそ……っ」
「吉祥天型西鬼、実によくできた人間もどきだな――俺も一目では気づかなかった」
 走馬灯のように次々と、彼女たちとの生活が甦る。食事を作ってきたのも、運んできたのも、着替えを洗濯してきたのも、いつも彼女たち蘭鋳だった。只者ではないとは感じていたが、よもや人間ですらなかったなんて。
 今さらながらに血の気が引いてきて、目眩がしそうだ。縺れた足で転がるように建物を出た瞬間、
「――止まれ」
 待ち構えていた西華兵に、三方を取り囲まれた。
 真昼の光を跳ね返す銃口がぐるりと並んで、千歳たちに狙いを定めている。鳴りやまない警報音の中、右に、左に、それを認めて、千歳は渇いた喉を上下させた。……逃げ切れない。
「顔を見せろ。何者だ」
 西華兵の一人が、銃口をゆっくりと持ち上げて橘に命じた。
「……クソ」
 橘は奥歯を噛み締めて、地面に向かって吐き捨てるように一言、そう呟いた。俯かせていた視線を上げ、目深に被っていた帽子を取り――隠し持っていた小銃で、正面の兵士を続け様に撃ち抜いた。
「な――」
 そこから先は、すべてが永遠のように緻密な一瞬の出来事だった。折り重なって倒れた仲間たちを、思わず目で追った針の先ほどの隙が、彼らの命取りになった。風を切って薙ぎ払われた軍刀が、一列に並んだライフル銃を宙へと弾き飛ばす。手にあったはずの武器が奪われて、丸腰になったことに気づいたときには、返し刀の背が首元に迫っていて、声にならない悲鳴と共に意識を失った体が地面へ崩れ落ちる。
 倒れかかってきた体を避けた足で、ナイフを振りかぶった兵士の鳩尾を蹴飛ばし、立ち竦んでいた兵士もろとも倉庫の壁に叩きつける。トタンの庇が衝撃に揺れて落下し、逃げ出そうとしていた者を見る間に圧し潰した。
「この……っ、化け物!」
「少尉!」
 一部始終を呆然とへたり込んだまま見つめていた千歳は、最後に残った一人の兵士が橘に掴みかかろうとしたのを見て、咄嗟に手を伸ばした。魔術が千歳の体内を光の血流となって駆け巡り、手のひらから炎の一塊が渦を巻いて飛び出した。
 だがそれはあっというまに勢いを失くして、金木犀が散るように火の粉となって霧散してしまう。男の強張った顔に、一瞬、笑いが浮かんだ。次の瞬間、橘の拳がそれを拉げさせ、トタンに埋もれて半狂乱になっている仲間の上に打ち飛ばした。
「千歳」
 振り返った琥珀色の眸と視線が交わったとき、千歳の胸がツキンと刺されたように痛んだ。覚えのある痛みに、あ、と声が引き攣る。橘はそれを千歳が放心しているとでも思ったのか、屈んで「行くぞ」と手を差し出した。
 ――どこまでいっても、その手と同じだけ強くなれなくて、嫌になる。
「いたぞ!」
 遠くで聞こえた叫び声に、千歳ははっとして声のほうを向いた。華蓮支部の建物の脇から、爪の先ほどの人影が数十人、こちらを目指して一直線に走ってくる姿があった。
 さすがに相手取れる数ではないと判断したのだろう、橘は千歳の腕を引いて無理やり立たせると、支部を囲んでいる塀を目がけて有無を言わさず走り出した。鉢合わせた巡回の兵士を鞘ごと振るった刀で薙ぎ払い、蹴飛ばし、道を切り拓いて止まらずに進んでいく。
 縺れた足を掴まれて、橘に間一髪引き寄せられた瞬間、千歳の中で堰き止めていたものがとうとう口をついて決壊した。
「ごめんなさい」
「え?」
「私、貴方に比べたら本当に弱くて。守られてばかりだわ。足手まといは、嫌いでしょ?」
 脳裏にワイバーン型との戦いが甦る。守ってなどやれないと宣言していた橘に、結局、守らせてばかりだ。余計な手間をかけさせるだけでは飽き足らず、こんなところまで来て、危険を冒させて。繋いでくれたこの手を、煩わせてばかりいる。
 誰かを見殺しにできない、優しさに甘えて。
 いっそ本当は、再会できなかったほうがこの人のためだったのではないか。恐る恐る開いた千歳の手を、橘の手が痛むほど強く握った。
「足手まといじゃなくて、そういう自己完結で突っ走るところが嫌いなんだ。ったく」
「な……、だって、貴方が最初にそう言ったから!」
「あれはお前に、生きて戦場に立つって腹を括らせるために言ったんだ。怪我でもしたら、俺の言った通りでむかつくって思わせるために」
「えっ?」
「あの頃の俺の話なんて、頭に来る一言でもなきゃ覚えておかなかっただろうが」
 黒水晶の目を見開いて、千歳は橘の背中を見つめた。返しかけていた言葉も忘れてしまって、開いたはずの口を何も言わずに閉じる。
「本当に足手まといだったら、とっくにそう言ってる」
 ふいに凪いだ風のような、穏やかな声で、橘は言った。そうして千歳の手を握っていた力をふっと緩めると、
「お前が弱いんじゃなくて、お前の前にいるときの俺が強いんだ」
「え……?」
「だから、離れるなよ」
 優に三メートルはあろうかという塀の前で、足を止めた。
「千歳」
 広げた腕の先で、橘はかすかに笑っていた。からかったようにも、ただ本当に表情の底から滲んできたようにも見える、どちらとも読めない淡い笑みだった。でも千歳はもう、迷わなかった。迷わなくていいのだということだけは、胸に一生消えない深さで、今、はっきりと刻まれた気がした。
 ――私はこの人の、契約者(パートナー)だ。
 身を屈めた橘の首に、しっかりと両腕を回す。橘は千歳が掴まったのを確かめると、横抱きにして、力の限りに地面を蹴った。
 宙に浮かんだ体の真横を、銃弾がスローモーションですり抜けていく。それは実際に、遠くから発砲されて失速しながらも、千歳たちの元まで辿り着いた弾だった。月の軌道のような弧を描いて、塀の外の堀に落ちていく。
 橘は塀の上に、導かれるように着地した。
「――少尉」
 その背を、聞き覚えのある声が呼び止める。膝をついた橘から降り立とうとしていた千歳も、思わず塀の内側を振り返った。
 羽織を風にひるがえして、弟切がそこに立っていた。彼の手には、黒檀の大弓が握られている。
「弟切」
 橘が強張った声でその名を呼んだ瞬間、弟切は大弓を橘に向かって投げた。反射的に掴み取ってから、橘は驚いて、弓と弟切を交互に見下ろした。間違いなく、失われたと思っていた千歳の大弓だった。
 朽葉色の眸が一瞬、何か告げようとしたかのように千歳を見る。そのまま橘へと視線を移して、微笑った。
「お逃げください」
 羽織の下にかけていた剣を音もなく抜き、弟切は千歳たちに背中を向けた。その切っ先が、どこに向けられているのか。彼が何をしようとしているのか気づいて、
「弟切さん、だめ!」
 千歳は思わず、張り裂けるような声を上げて叫んでいた。弟切が振り向いて、呆気に取られた顔で千歳を見上げる。


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