第二十二章 契約者


 と、ガタンと音を立てて、襖が開扉を拒んだ。
「え?」
 もう一度引いてみるが、やはり動かない。見れば黒漆を塗った骨に、ねじ式の鍵を通すものらしき錠が取り付けられていた。施錠されているのだ。他の部屋は開け放しだったというのに、この部屋だけ。
 さり、と中でかすかな衣擦れの気配が動いた。橘は直感的に、奥へ向かって叫んだ。
「――千歳!」

「橘……少尉?」
 例えるならそれは、襖絵の天国も地獄も打ち払う〈この世〉そのもののような。そこにあることを疑いようのない、強くて、はっきりとした声だった。
 空耳かもしれない、なんて、感傷的な自虐ひとつする隙もない。誰が何と言おうとも、例え自分が誰より信じられない思いでいようとも、彼はそこにいる。そう確信を突きつけてくる、懐かしい声だった。
「橘少尉! 私……っ」
「そこにいるんだな?」
「ええ!」
「下がってろ」
 思わず這って傍へ行こうとした千歳を、橘の声が制する。はっとして布団の上に戻った瞬間、銀色の一閃が天女の首を斬り落とし、真っ二つに分かれた襖が折り重なって畳に倒れた。
「……千歳」
 天国を切り裂いて現れたその人は、は、と肩から息をついて、幻でも見るような目をして千歳を捉えた。
「橘、少尉」
 千歳も同じで、先刻はあれほど強くその実在を感じ取れたのに、いざ目の前にすると途方もない夢を見ているようだった。真っ白い光が胸にせり上がって、広野に昇る朝日を浴びたように、感情という感情が焼き尽くされて白く光り輝く。
 眩しくて、ただそこにあるだけなのに瞬きもできないくらい眩しくて、言葉が何ひとつ出てこない。
 こういうときに言うべきことが、何か、あったはずなのに。あ、と震える唇を開いた瞬間、こぼれたのは声ではなくて涙だった。
「……っ」
 声は、風のように降りてきた影に呑み込まれて、音にならなかった。唇に触れた柔らかな温もりに、体中を巡る血が、はっと温度を上げる。睫毛の先に落ちた光の粒まで見えるような至近距離で、熱く揺れた琥珀色に息を呑む。その息を追いかけるように口づけを深くされて、千歳はびくりと肩を縮こまらせて目を瞑った。
 そのときになってようやく、会いたかった、という言葉が胸に浮かび上がった。
「たちば、ん……っ」
 会いたかった。私は貴方に、会いたかったのだ。
 自覚した感情を伝えようと顔を上げたら、またしても口づけに呑み込まれて声にできなかった。呼吸も、拍動も、何もかも奪っていくような口づけに、痛みも熱も、急速に奪われていく。
 助けなど求めてはいけない。こんなところまで来られるはずがない。期待など今さら持てるわけがない。自分で落ちた罠くらい、自分で抜けてみせる。
 そう強がりながら、本当はずっと、信じたくて堪らなかったのだ。橘がここへ来てくれると、信じて願いたくて、堪らなかった。
(本当に、貴方だ)
 閉じた瞼の奥でぐらりと目眩がして、千歳は橘の首に両腕を回した。ゆっくりと背中を撫で下ろす手が、天と地がどちらにあるのか教えてくれる。
 怖くはなかった。このまま死んでしまうのではないかと思うくらい、急激に下がっていく熱も、逃げ場を探して体中を駆け回りながら打ち消されていく痛みも。今この瞬間、この人にだったら殺されたっていいかな、と思えば、何一つ恐ろしいことなどなかった。
 ――ああ、蜜が骨の髄まで回る。
「千歳」
 眦を拭われて初めて、いつまでも震えていたのが自分の背中ではなく、それを撫でていた手のひらだったと気づいた。甲に手を添えて、かすかに煙草の匂いを染み込ませた手袋にそっと頬を寄せる。千歳はそうして、くす、と微笑みを浮かべて、
「立てるか」
「ええ」
 橘の手を借りて、身軽になった体で立ち上がった。その足元で、ガチャンと金属がぶつかり合う。
「あっ」
 よろけて崩れ落ちかけた千歳を、橘が反射的に支えた。足枷をかけられていたのを、すっかり忘れていた。これでは走れない。
 どうしよう、と辺りに視線を巡らせて、千歳は意を決して畳の上に立った。
「壊して」
「……っ、待て、さすがにそれは」
「危険じゃない。貴方ならできるでしょ?」
 それで、と、千歳が指したのは橘の手にしている軍刀だった。鍵は蘭鋳か弟切が持っていて、ここにはない。ならば、あるものを使うしか。
 枷は千歳がたくし上げた袴の、脹脛の丸みの下から覗く足首に、ほとんど隙間なくぴったりと纏いついている。
 少しでも狙いが逸れれば、大惨事だ。橘はごくりと固唾を呑んで、
「本当に、お前は……っ」
「お願い」
「度胸があるのも、大概にしろ!」
 一息で立て続けに、両脚の枷を斬った。鎖を繋ぐ金属の継ぎ目に刃先が入り込み、小さな蝶番が粉々に砕け散る。千歳はこぼれた残骸を跨いで、踵に手を滑らせ、
「ほら、やっぱり大丈夫だった。ありがとう」
「……どういたしまして」
 悪戯っぽく歯を見せて笑って、礼を言った。橘はもはや何も言い返さず、肩の力が抜けたようにどっと息をついた。
 ビィー、と侵入者を告げる警報音が、外から鳴り響く。
「行くぞ」
 差し出された手に手を重ねて、千歳は引っ張られるように走り出した。倒れた襖が足の下で弾み、首をなくした天女が物言いたげに二人を見送った。真っ白な足袋の裏を汚して、靴も履かずに廊下を駆け抜ける。鮮やかな襖絵や、金銀の細工がそこかしこに張り巡らされた、黒漆の迷路。絢爛豪華なその美しささえ、目を瞠る頃には、とっくに背の彼方だ。
 ――風になったみたい。
 一人では絶対に不可能な速度で走り続け、地面を蹴った足が羽を得たように浮かび上がる。千歳は前をゆく橘の手を強く握った。振り落とされないように、置き去られないように。応えるように、千歳の手を包む力も強くなる。
 なぜだか無性に眸の奥が熱くなって、千歳はその微熱を振り払うように「ねえ」と声を上げた。
「どうしてここが分かったの?」
「電報のおかげだ。あの電報がなかったら、こうは見当がつかなかった」
「電報?」
「送っただろう? 黒い蝶、って」
 何のことを言われているのだか、さっぱり分からない。身に覚えのない話に、千歳はきょとんとして首を傾げた。反応の薄いのに気づいた橘が、正面を向いたまま、千歳? と問いかける。
「私、送ってないわ」
「え?」
「ずっと、あの部屋を出られなかったの。電報なんて、とても送れる状況じゃなかった」
「そうなのか? でもじゃあ、あれは誰が……」
 橘が訝しむようにぼやいた。黒い蝶、確かにそれは自分たちの間で、ネリネの髪飾りを、そしてその真実の共有者であることを示す一つの符号だ。そう思ったところで、千歳ははたと、あと一人だけ同じ符号を使える存在がいたことに気づいた。
「橘少尉、それ、もしかしたら――」
 朽葉色の眸を下へ向けた、寡黙な横顔が脳裏に浮かぶ。そのとき曲がり角からふいに、赤と白の影が飛び出してきた。


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