四章 久藤八積


 未明に降る雨の音と昼を覆う蒸し暑さで、一日一日が、切れ味の悪い包丁で切った葱のように繋がった六月が終わっていく。七月。私は学食の窓際に並んだカウンター席で昼食を摂りながら、秋から始まるゼミ選びに向けた資料と向き合っていた。
 国文学に精通した教授のいるゼミが魅力的だが、合同研究がありそうなのが引っかかって二の足を踏んでいる。勉強は、一人でする分にはいい。大勢で意見を出し合うような和気藹々とした学習が、必ずしも座学より楽しめる生徒ばかりではない。私は老いた背中から資料と煙草の匂いがする教授の、長い年月をかけて培われた見解を、ただ本を読むがごとく享受するほうが楽しいのだ。
 もっとも、それは大学の勉強ではないというのが、多くの教授が言う一般論なのだけれど。
 文字なんていくらでも読めるくせに、目がチカチカしてきた。はあ、とため息をついて資料をカウンターに投げ出す。決断をするのはいつも恐ろしい。間違うことを恐れているのだ。こちらへ行こうと舵を切った先が、絶壁だったらどうすれば?
 私は塾も、高校も大学も親が決めた。こう言うと世間は自由がない子だと憐れむかもしれない。実際、私も心の底で、私はあなたたちの望みを叶えるために生きているんじゃないと親に反発を抱いたこともある。でも、卵が先か鶏が先か。私が決断をできないから、親が行き先を示してくれたのも事実なのだ。
 少しずつ、何もかもを決めてはもらえなくなっていく。ゼミのことはまだ、相談くらいはできるとして、恋愛のことなどどうして馬鹿正直に言えるものか。私は今、決断を先延ばしにして抱え込んでいるもうひとつの案件を思い出し、窓の外に目をやった。晴れた中庭が広がっている。片山くんと再会した日の喧騒は、嘘のように影も形もない。
 コンサートから二週間。私はとっくに、ひとつの結論に到達していた。片山くんの告白に応えようと思う。
 彼は私には勿体ないくらいの文句なしの人だし、好きだと言われて、真剣な目で見つめられてどきりともした。今はまだ形のはっきりしない好意でも、私のそれは、いつか片山くんと同じ形になれるだろう。付き合ってみようと、思うのだ。
 そのためにはどうしても、避けて通れない試練がある。久藤くんとの関係を断つこと。私は今日、そのために自らの錆びた舵を切っていた。即ち、久藤くんに会う約束を取りつけた。五年間で初めて、私が彼を呼んだのだ。

 雨曝しの細い階段を上がるとき、手すりの捲れたペンキを一部、私の手がぶつかって剥がしてしまった。草むらに落ちていった臙脂色の欠片を見下ろして、剥き出しになった鉄の冷たさに触れる。
 最後の最後に、しょうもない傷を残していくみたいだ。綺麗に発てない鳥のようで、私はどこまでいってもそんなものなのだな、と自嘲する。でも、ここまで来て後には退けない。カン、カン、と音を響かせる階段を断頭台に上る気持ちで上りつめ、おかしいの、切られるのではなく切りに来たのに、と呆れ笑った。
 チャイムを鳴らすと、中から「入って」という声が聞こえる。
「お邪魔します」
 うっすらと冷房の入った部屋に満ちる、油絵具の香り。丸椅子に腰かけた久藤くんはこちらに背中を向けて、パレットを片手に筆を動かしている。見ればテーブルに着物がかかっており、実物の光沢を参考にして色を置いているところのようだった。可動式のテーブルに、スマートフォンと珈琲、溶き油の黄色い瓶がのっている。
「珍しいわねェ。あなたのほうから連絡してくるなんて」
「う、うん」
 身に馴染んだ、この部屋の匂い。私は自分で決断しておきながら、ドアを閉めた途端に、勇んでいた心が委縮するのを感じていた。そういうふうにできているのだ。この部屋に来るのは、いつも久藤くんからの呼び出しがあったときだったから。ここでの私は、他のどの場所にいるときよりも彼の犬で、彼もここでは外にいるときの久藤八積とは違う、寡黙で鋭敏な飼い主の顔をしていた。
 この部屋で久藤くんに逆らうことになるなんて、考えたこともなかった。怖じ気づくのが分かっていたから本当は外で会いたかったのだけれど、時間を訊かれて希望を言ったところ、それなら家にいるわと言われてしまったから仕方ない。外に来てと呼び出す勇気は、私にはなかった。かたん、と絵筆がパレットの端に収められる。
「それで、未央。話って?」
 単刀直入に、久藤くんは本題を切り出した。びくりと息を詰めた私の気配は、その背中にも伝わったかもしれない。低い、淡々とした声だった。まるで今から私が言おうとしていることを、もう分かっているかのような。
 固唾を呑んで、スカートを握りしめる。
「私〈お願い〉を……、やめたいの」
「何?」
「久藤くんからの〈お願い〉をきく生活を、やめたい」
 辺りの空気が、しんと息を潜めたのが分かった。細く開けた窓から流れ込んでくる風が止んで、カーテンや衣服を揺らすものはなく、一瞬にして時間が止められたかのようだ。珈琲の上の湯気さえ糸のようにまっすぐ立っている。
 と、そのとき外で我関せずのカラスが一羽、間延びした声を上げて、久藤くんの肩がかすかに動いた。
「それは、宗にあなたの秘密がばれてもいいということ?」
 突然出てきた名前に、今度は私が肩を跳ねさせる。
「なんで片山くん?」
「宗が好きだから、一緒のサークルに入ったりデートをしたりするのに、私に邪魔をされたくないのかと思って」
「そういうことじゃ……」
 ない、とは言い切れなかった。久藤くんの目線からすれば、その通りかもしれないと思ったからだ。私は最後まで力強くは言えずに、口を噤んだ。でも、久藤くんが想像しているような理屈とは、私の中にある意思は違っている。
 この期に及んで、後味の悪い誤解や悔恨を残すのは不本意だ。本題を口にしてしまったことでごまかしが利かなくなり、居直ってきた私は、スカートを握りしめた手の中に汗を滲ませてかぶりを振った。
「似てるけど違う」
「ふうん?」
「私……、片山くんと付き合うの」
 久藤くんが、驚いたようにこちらを振り返った。丸椅子に座った彼を見下ろしているのは私のはずなのに、視線の高さなど、なんの精神的な薬にもなってはくれなかった。ばくばくと胸が騒ぎ始める。落ち着いていられたのは、久藤くんが背中を向けていたからだったと痛感した。
 面と向かって視線を噛み合わせた今、頭の中にはまとまっていたはずの言葉が散乱して、足の踏み場もなくなっている。
「告白されたの。人生で初めて。私、片山くんを大事にしたい」
「未央……」
「だから久藤くんと、今のままではいたくないの。私が逆の立場だったら、片山くんに逆らえない女の人がいて、私との約束や時間よりその人を優先するなんて嫌だもの」
 恋人だからという理由で、相手のすべてを独占するのが正しいとは思わない。でも、恋人なのだから、相手の一番である権利くらいはあると思う。
 これが私の意思であり、久藤くんとの関係を切る理屈だ。今のままでは、私は片山くんと付き合ったとしても、久藤くんの呼び出しに応じて席を立ったり、デートの日にちを頻繁に延期したりするだろう。例えそれが私の望んだことではなかったとしても、事情を知らない片山くんにしてみれば、私の一番は久藤くんなのだと見えてしまうに違いない。


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