三章 音楽祭


「え……」
 正面に思いがけない姿を見て、私の足は張りつけられたように止まった。漏れた声に、下を向いていたその人が顔を上げる。金の髪から覗く、深い眉の彫りの陰の眸。一瞬、射抜くような鋭さを持っていたそれが、私の姿を見とめてふっと和らいだ。
「未央」
「久藤くん……、どうしてここに?」
 もしかしてまた、電話を無視していただろうか。慌ててスマートフォンを取り出し、画面を確認したが、新しい着信は入っていなかった。ほっとしてしまう私の前に、柱から背中を離した久藤くんが大股に歩いてくる。
 白地にグレーで模様を空かした長いTシャツに、細身のダメージジーンズ。ホワイトタイガーが近づいてくるみたい、と息を呑んだとき、正面にやってきた彼はぴたりと足を止めた。
「電話。ちょっと言葉足らずに切っちゃったから、あなたが私の呼び出しを無視して、怒られた気でいるんじゃないかと思って」
「あ……」
「さっきは邪魔したみたいで、ごめんなさいねェ?」
 白い指で前髪をかき上げて、久藤くんは視線を合わせないまま言った。邪魔、という表現に片山くんの言い残した「次はデートとして」という発言が被さってしまい、頬がわずかに熱を持つ。
 久藤くんに悟られたくなくて、さっと下を向いた。彼はそれをどんな反応と捉えたのか、短いため息をついて、腕組みをした。
「用があったわけじゃないから、気にしなくていいわ」
「そうだったの?」
「昨夜、あなたが何か言いたげだったような気がしたから……ちょっと気になって、かけておいただけ。そういうことだから、忘れて頂戴」
 昨夜。私がその電話の内容を、詳しく思い出すのを待たず、久藤くんは片手に持っていた紙袋を私に押しつけた。慌てて抱えるように受け取ると、ずしりと重さが両腕にかかる。ダリの画集だった。
「あっ、ありがとう。えっと、私も今持ってくる?」
「いいわよ。明日の夕方は? 何か予定が入った?」
「ううん」
「じゃあ、モデルをして。本はそのときに持ってきて」
 分かったと頷いて、紙袋の取っ手を片腕に通す。私はその間にも画集の表紙が気になって、ちらちらと何度も見て、綻びそうになる顔を抑えていた。
「帰り道に読むんじゃないわよ」
「借り物だもの、大事に読むよ」
「そういう意味じゃないけど。……それじゃあね、また明日」
 背中を向けた久藤くんは、私が「うん」と言う頃にはもう歩き出していた。一度こちらを振り返り、私と目が合うと、無言で遠ざかっていく。
 夜の陰に消えていくその後ろ姿を、なんとなく見えなくなるまで見送りながら、私はふと画集を持ち上げてみて気づいた。
 紙袋の底が、重さで今にも抜けそうに突き出している。久藤くんはいつから、ここに立っていたのだろう。


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