四章 久藤八積


 そんな見え透いた失敗で、この天恵のような恋を呆気なく壊したくはないのだ。一生に一度でもいいから、恋愛がしてみたかった。片想いでもいいとか、物語で十分だとか散々自分を騙してきたけれど、私はやっぱり、この身で恋をしてみたいのだ。
 その望みさえ叶うなら、例え最後には片山くんが私に飽きて、私を路傍に放り出して他の可愛い子と一緒になったって構わない。
「恋をしたいの。片山くんとだったら、それが叶うの」
 情けないほどの恋愛への渇望が、私を突き動かしていた。悲しいわけでもないのに目から涙が溢れ、止まらなくなっていた。興奮で溢れた血みたいに熱い。私は自分でも、こんなにも憧れを押し殺して生きていたのだということにぞっとした。
 脳裏にかつて、久藤くんから返されたあの本がよみがえってくる。地味な色のカバーをかけた、あの一冊の本のように、私の欲望ともいうべき憧憬は密に重なって固く綴じられて、湿気を含んで埃臭く膨れ上がりながら、傷んだり潰れたりすることもなく、あの頃からまるで変わらず私の中にあり続けていたのだ!
 久藤くんは、静かな眼差しで私を見据えていた。その姿は断固として動かない氷山に腰かけた極地の人のようで、取り乱した私は、流氷に乗って流されていく遭難者みたいだった。縋る思いで彼を見た。私の言っていることが、この人には伝わるはずだという確信があった。
 五年前、私の中に根深く隠れている恋愛への憧れを見抜いた久藤くんならば。今がどれほど私にとって願ってもないときか、分からないはずがなかった。
「つまりあなたは、宗と付き合うために、私からの干渉をやめてほしいと。尚且つ、宗には綺麗なままの恋人でいたい。秘密を守ってほしいと……、そういうこと?」
「……っ、そう」
「とんだご都合主義ねェ。読書家とは思えない、筋の通らない主張だわ」
 絵具に汚れた膝を叩いて、はッと呆れ果てたように笑う。卑屈だわァ、と私を斬り捨てたときと同じ、美意識に反するものに向ける顔と声だった。私は久藤くんの背中に、あのむっとした事務所の壁や蛍光灯を思い出し、短剣で胸を抉られたような気になって唇を噛んだ。かき上げられた髪の後ろから、眸が光の下に覗く。
 驚くほどに冷たい、氷のような目をしていた。私の背中に、いつかと同じぞくりとした恐怖が走った。次の瞬間には、髪を乱して下りてきた彼の手のひらが、その燐光を覆った。
「三日間よ」
「え……?」
「三日間で、絵を完成させる。その間、あなたが一切合財の権利と尊厳を私に託し、私の〈お願い〉に逆らわず、私に縛られていられたなら――あなたとの関係を切り、あなたの秘密は永久に土の下へ埋めても構わない」
「久藤くん、それって」
「三日間、私のものになるなら、あなたの願いを呑むわって言ってるの」
 再び覗いた彼の目には、微笑みが浮かんでいた。慈愛と皮肉、挑発と憤怒、様々な感情に見える玉虫色の目だった。私には久藤くんの胸中は読めなかった。でも、迷いはなかった。
 私は今までも彼のお願いに逆らえない立場であり、実質久藤くんのものだったような話だろう。それが今後三日間、強化されるというだけのことだ。強化と言っても彼は三日間で絵を描くと宣言しており、即ち私がすることは、おそらく普段からやっているモデルと大差ない。
 例えその片手間に、家政婦みたいに労働をさせられたとしても、ローマの奴隷みたいに罵声を浴びせられたとしても。期限が区切られているなら恐れることはない。今さら躊躇うような内容ではなかった。私は即座に、首を縦に振った。
「分かった」
「正気?」
「何でも言っていいよ。今から三日間、私からは〈はい〉以外の返事はない。それでいいんでしょ?」
 自分を奮い立たせるために、あえて語調を強めて宣言する。久藤くんはじっと私を見つめた。それから浅いため息と共に目を伏せて、テーブルの上にあった筆を拭くための布きれを掴んで、まっすぐに立ち上がった。
「そう。……なら、これで決まりね」
 目線の高さが逆転して、思わずたじろぐ。一歩足を退いたら、肘が食器棚にぶつかった。あ、とそちらを向きかけた私の顔から、伸びてきた手が眼鏡を外した。ぼやけた景色を見る隙もなく、目の前が真っ白に包まれる。
 体温の低い指が、耳を掠めて頭の後ろへ回された。かすかに漂った絵具の匂い。先刻の布きれだ。私は理解して、同時に困惑で両手を宙にもがいた。
「な、なに……っ」
「目隠しよ。このほうが雰囲気も出るし……、あなたと顔を合わせなくて済む」
「久藤、くん?」
「〈はい〉以外の返事はない。そう言ったのは誰かしら?」
 左の目に言い聞かせるように囁かれて、睫毛を押さえつけた白い布が吐息でじわりと熱くなるのが分かった。反対に私の全身は、氷水に落とされたかのようにぞっと震えた。
 久藤くんという人間に対して、度々感じることのあった、この恐怖。今までは一瞬で通り過ぎていったそれが、警告のように体内をじわじわと満たし始め、頭の奥で血管がどくどくと脈打つ。
 本能的な恐怖に支配されて、思考が凍りつき、反応ができなかった。頭の後ろで目隠しの布が固く結ばれ、所々にシルバーの冷たさを纏った手が、彼の肩を押した手首を掴み上げて、同じ布きれでひとつに絡げてしまうまで。私は呆然と、目隠しの奥で目を開けたまま突っ立っていた。
「なんのつもり……?」
「別に。モデルをしてもらうだけよ」
 激しく戸惑う私の肩に手をかけて、久藤くんはゆっくり、前へと力をかける。押し出されるように部屋の中を一歩、また一歩と歩いていくと、倍にも長く感じられる距離を進んだところで、爪先がいつもの椅子に触れた。
「座って、未央」
 その言葉が、私には「おすわり」と聞こえた。ぐらりと眩暈がする。私は舵取りを、誤ったかもしれない。
 半ば押されるように腰かけた私の背後で、しゅる、と何かの紐をほどくような音が聞こえた。動揺で力が抜けてしまっていて、一度座った椅子からは容易に立てなかった。見えない。真っ白な布地に広がる明るい闇を見つめたまま、苦しいわけでもないのに浅くなる呼吸を必死に抑える。
 彼は、何をしようとしているのか? 久藤くんの考えていることは、私にはいつも分からない。でも、こんなにも分からないと感じたことは、今までに一度もなかった。
 断崖絶壁を覗き込む、船の気持ちだ。その底にあるのがどんな感情なのか――足首を掴むひやりとした手のひらからは、一切汲み取れない。襦袢を結ぶ紐のような、幅のある布が踝の上を滑る。左足から順番に、両足が椅子の脚と磔になった。
「こんなの、狂ってる」
 怒りを表す手段だとしても、私にリタイアさせるための精神的な脅迫だとしても。視覚と手足の自由を奪って閉じ込めるなんて、まるで監禁ではないか。
 やっと困惑を口に出せるようになって震え声で言った私に、踵の上で動いていた手が一瞬止まった。


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