三章 音楽祭


 葉桜が作る青い影の下に、紺色のかばんを肩にかけた青年が一人、立っている。こういうときは、どこまで近づいて声をかけたらいいのだろう。迷った末、トークアプリを開いて「着きました」と送信すると、彼は手にしていたスマートフォンから顔を上げて、私に気づいてそれをポケットにしまった。
「群山さん」
「ごめん、待たせたみたいで」
「全然。俺もさっき着いたところだから」
 片山くんはそう言って、腕時計を確認した。十二時を少し過ぎたところだ。キャンパスからは外に食事を摂りにゆく生徒たちが、ぱらぱらと出てきはじめている。
 三限の講義を互いに取っていないと分かったこの日、私と片山くんは、かねてからの約束通り食事に出かけることになった。数日前、片山くんからの連絡があって、とんとん拍子に決まった話だ。今度ごはんでも、というありきたりな約束が実現される確率は低いと思っていたので、本当に連絡があるとは思わなくて少し驚いた。
 慣れない会話にぎこちなさを見透かされまいとして、却って時間がかかり、素っ気ない態度の返信を何度もしてしまったように思う。片山くんは気を悪くした様子もなく、この間と変わらない笑顔を見せてくれて、安心した。
「ちょうど昼時だね。ちょっと混んでるかもしれないけど、俺たちも行こうか?」
「うん」
「群山さん、何食べたい? この辺でおすすめとかあったら教えて」
 お腹が空いているのか、挨拶もそこそこに歩き始めた片山くんと連れ立って、私も葉桜の影を抜け真昼の遊歩道へ踏み出す。人の流れに沿って駅前へと向かう道すがら、大学に入ってから誰かと食事に行くのは初めてだという片山くんに、私もそんなものだと答えてから、一度だけ経験があったのを思い出した。
 今どこ、とだけ電話で訊かれて、答えた喫茶店に久藤くんが来たことがあったのだ。終始たいした会話もなくて、ただ何かに疲れたように黙々とハヤシライスを食する彼の前で、私はエッセイを読んでいた。それだけの一時間足らずだ。そういえばちょうど、去年の今ごろだった気がする。
 どうしたのと訊いたら、しばらく間があってから、あなただったら人の少ない店を知ってるだろうと思って、という返事が返ってきた。そこは読書に最適な、学生にはほとんど知られていない、珈琲と軽食で昼の三時間だけ営業する喫茶店だった。
 この人も慣れない環境に戸惑ったりするのかな、と、当たり障りのない言葉で答えながら内心驚いた記憶がある。後にも先にも、久藤くんが人付き合いにうんざりした姿を見せたのはそれきり。あれを「友達との食事」というのは、些か無理があるかもしれない。
 除外するなら正真正銘、私にとってもこれが、大学生になって初めての友達付き合いだ。友達、という響きを言い聞かせるように噛みしめながら、通り過ぎていく自転車の起こした風に舞い上がるスカートを片手でおさえた。


 片山くんとの食事はそれから、なんとなく毎週の恒例行事のようになり、気づけば一ヶ月が経とうとしていた。火曜日の夜になるといつも連絡が来る。明日なに食べる? という、一緒に出かけることの確認を省いた連絡。
 実を言うと、私は三限が休みなのではなくて、毎週水曜日は午前授業しか入れていない日だった。最初の頃に慌てて返事をしたせいで行き違いが生まれていて、片山くんは私も四限があると思っている。
 今さら言い出すことのできない私は、毎回一緒に昼食を摂っては一度学校へ戻り、片山くんの姿が見えなくなってから駅へ引き返すという、仕様もない嘘をつき続けていた。本当は遠くの図書館に通うため、まとめて時間を取った曜日なのだが、きっとそれを言ったら片山くんを恐縮させてしまうだろう。
 何より、彼が毎週のことをとても楽しみにしてくれているようなので、言い難い。門に着くと必ずと言っていいほど先に来ていて、私を見つけると、少年のような笑顔を浮かべて手を振る。
「群山さんってさ、本とか好きだったよね」
 今日も、結局その顔に押されてしまって、いつものように駅前へやってきてしまった。片山くんは見た目よりもずっと良く食べるので、基本的に大通り沿いの、学生をターゲットにした洋食屋から選ぶ。
「え……、うん。そうだね、好きかも」
「高校の頃、教室で読んでた記憶があってさ。同い年なのに、厚いの読むなぁって思ったんだ」
 チーズののったハンバーグや大盛りのナポリタンが並ぶメニューから、器が一番小さそうなラザニアと珈琲のセットを選ぶ。私はそれでも片山くんの皿が先に下げられていくのを見送りながら、冷めた残りの数口を少しずつ口に運んでいた。
 彼から「本」という単語が出て、一瞬あの置き忘れた小説のことが頭をよぎったが、片山くんが話したいのはそのことではないようでほっとした。彼はかばんから、教科書に挟んだ何かのパンフレットを取り出して私に向けた。
「何これ。〈物語の音楽祭〉……?」
「明日、すぐそこの文化ホールでやる演奏会なんだけど。有名な小説とか、童話の音楽を生演奏するっていうコンサートらしいんだ」
「知らなかった。そんなのあるんだ」
「小さい楽団らしくてさ、あんまり宣伝してないみたい。俺も今朝、駅で配ってたパンフレットもらって知ったばかりなんだけど……どうかな、興味あったりしない?」
 これはもしや、一緒に行こうという意味で訊かれているのだろうか。人付き合いの経験が薄い私にも、じっと見つめて首を傾げられれば、それくらいは察しがついた。予想を後押しするように、片山くんは私の返事を待って静かに微笑む。
 パンフレットに並んだ、覚えのある小説のタイトルと、その中に登場した楽曲たち。興味がない、と言うには、あまりに食い入るように見てしまった。
「ある、けど」
「都合悪い?」
「……分からない」
 絞り出した返事に、片山くんが怪訝な顔をする。言ってしまってから、私もおかしなことを口にしたと思った。
 自分の予定が、明日のことさえ分からないなんて普通ではない。でも、事実だったのだ。
 私にはいつ、どんなときに、久藤くんという飼い主の呼び声がかかるか分からない。水曜日の午後だけは以前「なんで空けたの」と問われ、図書館へ行く日にしたいからと答えて以来、連絡が来たことはない。でも、その他の曜日に関しては、私は自分がいつ久藤くんに呼び出されるのか、まったくもって事前に把握する術がないのだ。
「もしかしたら、急用が入っちゃうかもしれなくて。ドタキャンみたいなことに、なっちゃうかも」
「ふうん? 何か、忙しい?」
「そういうわけじゃないんだけど。時々、外せない用事が入るってだけで……」
 しどろもどろになってしまって、言えば言うほど、意味ありげな発言をしてしまう。素直に「久藤くんのモデル」と言えば良かったか。でもそんなもの、普通の友達同士なら一回くらい断れるはずだ。
 これ以上深く追及されたら、久藤くんとの関係が突き詰められてしまいそうで、どうしたらいいか分からなくなって下を向いた。空になったラザニアの皿が、通りすがりの店員さんに下げられていく。やがて正面の席から、じゃあさ、と気を取り直した声が言った。
「俺は興味があるから、一人でも行くから。群山さん、用事がなかったらおいでよ」
「え……」
「ホールの入り口で、六時頃。見かけたら声かけて」
 これあげる、とパンフレットが差し出される。片山くんは空いたスペースにメニューを広げて、俺も何か飲もうかな、とドリンクの欄に視線を落とした。


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