二章 片山宗


 そうだ。ずっと、片山くんのことを考えていた。水色のシャツを着て、少し大人びたあの元同級生のことを。何を思い出すともなしに、過去の光の底に沈んだ蜜色の教室を思い返したり、廊下や階段の角々に彼の姿を描いてみたり。そうして昼に会った青年と重ねては、彼の声を、連絡先を、取り留めもなく思い出していた。
 ずっと、片山くんと会ってから、ずっとだ。今だけではなく、午後の講義中も帰り道も久藤くんのアパートへ来るまでの道程も、同じような回想を繰り返している。
 ポーズを崩してテーブルに突っ伏した私に、久藤くんは怒らなかった。代わりに、私の目を人形の目でも覗き見るみたいにじっと見つめて、ガリ、とカンヴァスに鉛筆を滑らせた。
「今でも、宗が好き?」
「……まさか」
「違うの?」
「昔の話でしょ? 高校のときだって……最後まで好きだったのか、って言われたら、よく分からないのに」
 正直な気持ちだった。過去の片想いを思い出してどきりとはしたが、私は今このとき、片山くんが好きかと言われると、そうは思えない。彼に片想いをするのは、誰にも秘密の楽しみみたいなものだった。でも、それが久藤くんにばれてしまって、私はあの電車での出来事以来、片山くんを目で追うのをやめた。
 そうして目に入らなくなって、学年が変わってクラスも離れて、私の中で片山くんの存在は次第に薄くなっていったように思う。たまに廊下ですれ違えば、胸の奥が淡く震えるような心地はした。でも、その程度だった。遠い存在であることを寂しく思ったり、なりふり構わず彼を目で追っていたいと思ったりは、しなかったのだ。
 中心点のはっきりしない片想いだったから、輪郭も実にぼやけたもので、いつ終わったのか明確に説明することはできない。でも、今でも好きかと訊かれたら、それは違うと思う。
 たどたどしく答えた私に、久藤くんは「そう」と短く返事をした。それきりしばらく、黙って絵を描いて――私は彼が何も言わないので、ポーズを崩したままでいた――唐突に、口を開いた。
「薔薇の花言葉を知ってる?」
 いくつか、思い当たるものはあるような気がしたが、確信がなかったので首を横に振った。
「〈恋〉っていうのよ」
「恋……」
「今度の絵はね、〈恋〉を描いてるの」
 それはまた、私などがモデルを務めるには不釣り合いなテーマだ。ああもしかしたらそれで、私が片山くんに惚れているなら、何か引き出せるものがあるかもしれないと思ったのだろうか。
 ふ、とわけもなく寂しくなって笑った私に、久藤くんはまたしばらく、黙って描き続けた。彼が次に口を開いたのは、時計の針が六時を指したとき。
 久藤くんはどんなに集中していても、六時になると切り上げて片づけを始める。そして絵具のついた作業着のまま、踏切まで私を送って帰る。今日は踏切を渡ってすぐに遮断機の下りる音がして、振り返るとまだ線路のむこうに細い影が立っていた。
 私は、何か挨拶をすべきか迷って、数秒そこで足を止めた。踏切の音が間隔を狭めてきて、電車が走り抜ける。銀色の車体がごうごうと風を吹かせて過ぎた後には、まだ同じ影が立っていて、私の姿を見て無言で背中を向けた。


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