三章 音楽祭


「あの、ありがとう」
「全然?」
 そうして何事もなかったように笑って、私の珈琲を置きに来た店員さんに、カフェオレを追加で注文した。変わらないな、と熱いうちに一口飲んで、胸に湧きかけた熱をごまかす。
 明るくて誠実で、高校生のときの、私が好きだった片山くんのままだ。なんの関わりもなかった私にも、教室で一言二言話すとき、まるで友達同士のように気さくに接してくれた。今はもう関わりがあって、距離感だけが昔と違っている。
 まったくどうして面白いなあ、と傾けた珈琲の湯気が、眼鏡のレンズを曇らせながら私の前を昇っていった。
 迂闊な恋を、またもしてしまいそうになる。高校時代のことはただの、恋と片山くん、その両方への憧れが生み出した淡い思い出だと分かっているのに。それでもやはりこの人は、私の好きだった人に変わりないのだ。

 その日の夜、私が図書館から帰って部屋に一人でいたときだった。テーブルの端で充電器に挿してあったスマートフォンの画面が、着信を告げるモーションと共に明るく光った。
 風呂上りの濡れた髪を拭いていた私は、タオルで手のひらの水滴を拭いてスマートフォンを取り上げた。久藤くんだ。画面に表示された名前を見て、急いで電話に出る。
「はい」
「あ、もしもし、未央? 今いいかしら」
「うん、大丈夫。なに?」
 通話口のむこうはこちらと同じで、物音がほとんどなく静かだ。久藤くんも家からかけているのかもしれない。
「あなた前に、シェイクスピアの全集みたいなの、読んでなかった?」
「文庫のやつ?」
「そう。今度授業で提出するレポートに使いたくて、おすすめがあったらどれか一冊、貸してもらえないかしら」
 思うに、久藤くんほど私の読書癖を知っている人は他にいないだろう。待ち合わせの場所で、ごく稀に出かける電車の中で、私は久藤くんの前で何かと本を読んでいる。きゃあきゃあと話題が弾むような関係ではないし、そのわりには一緒にいる時間が長い。ようは、沈黙を潰すための手段でもあるのだ。私はモデルをしているときでさえ、久藤くんが構わないと言えば本を読んでいた。
「いいけど、たくさんあるからどれを勧めたらいいのか……どんな傾向とか、長さとか、何か絞ってくれない?」
「短くても長くても読むわ。シェイクスピアといえば悲劇……っていうのは、読み慣れない人間の勝手な印象?」
「悲劇だけではないけど、でも、私の好きなのは大体悲劇。オセローとか、ハムレットとか、ドラマチックで胸が赤いリボンで締めつけられるみたいなの」
「じゃあ、それにする」
 久藤くんはあっさりと決めた。滅多に思い入れも持たないけれど、広く浅く、大概のものは勧められたら読むし好む人だ。多分私が何を見立てても、それなりに気にいるだろう。
 彼が持っていたら似合うのはどっちかな、と思って、オセローに決めた。オセローはハムレットよりも、鮮烈な感じがする。物語も、タイトルの響きも、冷えたナイフの温度と同じ、シルバーのアクセサリーに通ずるところがある。
 ふと、前に久藤くんから感じた、氷のような冷たさを思い出した。
「助かるわァ。代わりに何か、うちにあるのを貸しましょうか」
 ぞくりと、思い出し寒気とでもいうのか、湯上りの背中が冷えたような心地がした。でもあれ以来、もう時間も経っていたし、あまり明確に思い出したわけではなかった。通話口のむこうから聞こえる久藤くんの声が、ぼんやりとした回想をかき消す。えっと、と考えていると、本棚を探っているような音が聞こえた。
「最近増えたのは、川瀬巴水とか若冲とかかしらねェ」
 滑らかな表紙の、厚い本を抜く音。彼が書棚に揃えているのは、多くが画集や展覧会の図録だ。美術書は値が張るので、文芸書で散財しがちな私は、なかなか自力で手を伸ばせないジャンルの書物である。ゆえに時々、貸し借りを持ちかけられると、社交辞令ではないのかと疑いながらも、誘惑に負けてしまうのだ。
「ああ、ダリもあるわよ」
「ダリ!」
 通話口から聞こえた名前に、私は思わず感嘆の声を上げた。久藤くんが、これにする? と厚い画集を抜く音がする。私は迷わず、うん、と答えていた。
「このあいだ読んだ本にダリが出てきたの。あ、推理小説なんだけど。美術品に詳しい犯人が残していった手がかりのひとつが、ダリの柔らかい時計でね。他にも色々、ダリにまつわるものが手がかりや、手がかりの象徴として使われてて――」
 そこまで話して、はっと口を噤んだ。訊かれてもいないことまで、べらべらと話していたことに気づいたからだ。電話のむこう側は誰もいないかのごとくしんとしている。まずい、何か言わないと、と喉を引き攣らせたときだった。
 クス、と笑う声が、かすかに漏れ聞こえてきた。
「それで?」
「……え?」
「続きを聞かせて。あと、ついでにその本も貸して。面白そうだもの」
 優しい声だった。まるで眠る前のホットミルクみたいな、温かくて甘い催促だった。一瞬、誰と話しているのか、頭から飛んでしまいそうになった。久藤くんの声なのだけれど、別の人のようだ。普段、面と向かって話すときの、冷静さや重さはない。かといって、彼が他の人たちに向けるような、華々しい明るさがあるのでもない。
「……主人公は、潰れかけの美術館に勤める学芸員なの。その美術館に、ちょっと特別な思い入れがあって、目玉の絵が盗まれたことをきっかけに探偵稼業に足を踏み入れることになっていくの」
「へえ」
「事件に関する推理も勿論なんだけど、読者は主人公の台詞や行動から、主人公の生い立ちを想像する必要が出てくるんだ。まるで私たちも推理を求められているみたいで……すごく面白かったなって。だから、その……」
「未央?」
「見られるの、楽しみ。ダリの画集、ありがとう」
 促されるままに一頻り話してから、私は久藤くんにお礼を言った。物語に出てきたものを実際に目で見たり味わったりするというのは、読書の先にある大きな楽しみのひとつだ。物語が世界と繋がって、自分の体を通して循環する喜び。ものや場所、料理、音楽もそう。
 ただのお礼よ、と久藤くんは言った。その声がまだ、鼓膜を包み込むみたいに優しくて、私は少し迷いながら口を開いた。
「あの、久藤くん」
「なあに?」
「明日、ね……」
 言いかけて、何と言ったらいいのか分からなくなる。片山くんと出かけるから、モデルはできない、と言いたかったのだ。
 でも、頼まれているのを断るわけではない。もし久藤くんに用事があって、元より明日は私と会うつもりなどないのだとしたら、それがどうしたという話だ。そもそも今までだって、不定期な用事を事前に報告したことなどなかった。ただ、私に遊びに行く相手やアルバイトなどがなかったから、久藤くんからの連絡に答えられないことがなかった、というだけで。
「未央?」
 訝しむような声が、通話口を通ってくる。私はとっさに、彼を目の前にしているわけでもないのに、顔を上げて笑った。
「ごめん、なんでもない」
「え? でも――」
「えっと、明日。本、明日持っていけばいい? って訊こうと思ったの。持っていくね」
 レポートで使うというのなら、少しでも早く渡すに越したことはないだろう。大学で渡しておけば、休み時間に読めるかもしれない。それじゃあ、と切ろうとする私を、久藤くんが遮った。髪から落ちた水滴が、足の甲に当たって跳ねる。


- 9 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -