第二幕:靴屋のヒルダ、或いは王女


「今夜の夢のことなんだけれど」
「うん」
「もう一度、昨夜と同じ世界に行かせてくれないかしら。私を、あの国の王女にして」
 夢売りは面白げに、蜂蜜色の目を瞠った。そうしてカッシーアを骨の髄まで見透かすように眺め下ろして、へえ、とその目を眇めた。
「あの世界に、欲しいものでも見つけた? 自由が欲しくて僕を呼んだくせに、また王女になりたいなんて」
「……っ、何でもいいでしょ。できるの? できないの?」
「夢に不可能はないよ、お姫様。すべて仰せのままに」
 わざとらしく宙に傅いてみせて、夢売りはウードに手を添えた。夢売りが何だかんだと言いつつも、自分の頼みを聞いてくれることを、カッシーアは心のどこかで確信していた。
 夢売りにとって、この取引は、ご馳走にありつくための儀式のようなものなのだ。カッシーアが嫌々ながらにも覚えている、晩餐のマナーと同じである。無駄な抵抗はせず、求められたことを淡々とやっていれば、それだけ早くご馳走を口に運べる。
 ゆえに、この人は自分の我儘を否定しないだろうと。思った通りの結果が得られて、カッシーアは床に横たわりながら、密かに笑った。
「立場だけでいいの? 変えるのは」
「あと名前も。カッシーアにして」
「姿は?」
「昨日と同じでいいわ」
 本当は、今の姿のほうが何倍も美しい自信があった。でも、美しいこととミカエルが覚えていることは別だ。カッシーアは赤の他人ではなく、一度会ったことがある関係として、彼に会いたかった。見た目を変えるわけにはいかない。
「じゃあ、昨夜の君を少しだけ飾るとしよう」
 ウードが爪弾かれる。目を瞑ったカッシーアの耳に、夢売りの声が囁きかけた。
「おやすみ、黒曜の姫。今夜も、一夜の夢幻を」

 こつこつと規則的に繰り返される自分の靴音で、カッシーアはゆっくりと目を開いた。白い、石造りの柱が並んだ、長い廊下を歩いていた。
 金糸の刺繍が施された、象牙色のドレスを着ている。ほどかれた赤い髪はうねりに従ってきらきらと日差しを弾くが、カチューシャにつけられたレースのヘッドドレスがやんわりと全体を覆い、闊達な印象を和らげて、落ち着いたものにしていた。
「城のことは、あまり覚えてはおらんか。お前はまだ、幼かったからのう」
 隣を歩いていた男が、懐かしむように言う。
 白髪、白髭、ほんのりと赤い健康そうな顔。出で立ちの豪奢さから、カッシーアはすぐに、この壮年の男こそがワイアット王だと見当をつけた。この国の王にして、今はカッシーアの父親だ。どの程度の距離を保ったらいいのか、探りながら口を開く。
「ええ、申し訳ありません。懐かしいような気持ちばかりは、漠然と、この胸にあるのですけれど……」
「その気持ちだけで、十分だ。十二年か――昔は父さま、父さまとじゃれついてきたものだが、見ない間に、すっかり大人びてしまったのう」
 どうやら、少し畏まりすぎたようだ。しかし、違和感を持たれた様子はなかった。久しぶりの再会、という体で進んでいく会話と照らし合わせて、カッシーアは今の調子で問題ないだろうと判断する。少し話が弾んだら、砕けた様子を見せればいい。
 それにしても、父親にじゃれつくとは。実父との関係とはずいぶんと違った環境を用意されたものだと、少し戸惑わずにはいられない。
 カッシーアが内心、そんなことを思いながら歩いていると、前方から曲がってきた人影を見とめて、王が声を上げた。
「ミカエル」
 どきっと、カッシーアの心臓が跳ねる。慌てて顔を上げると、王を見かけ、足を止めて一礼した彼は、まさしく昨日出会った青年、ミカエルだった。
 ミカエルもまた、カッシーアを目に留めて、翡翠の双眸をにわかに大きくした。
「ご機嫌麗しゅうございます、我らが王君」
「うむ。勤めの帰りか?」
「はい、ちょうど日課が終わったところです。私に何かご用事でしょうか?」
 彼は一瞬、食い入るようにカッシーアを見たが、すぐに何事もないふうを装って王に向き直った。冷静な、一本槍のような精神力で動揺を捨て去り、隣に立っているカッシーアを不躾に見ないように努めていた。
 王は頷いて、カッシーアの前に手を差し出した。
「お前に紹介しておこうと思ってのう。儂の四番目の娘、カッシーアだ」
「な……」
「驚くのも無理はない。カッシーアは十二年、この国を離れておった。先ほど、内々に到着を済ませたばかりで、儂も久しぶりに顔を合わせたところなのだ」
「一体、なぜ」
「この子の母妃は、トラントの王族の娘でのう。先の大戦で敵味方に分かれてしまったゆえ、縁を切り、カッシーアも母親と共にトラントへ帰っておったのだ。しかしミカエル、お前の助けもあり、戦争が終わってトラントとも国交が戻った。そこで、またこちらでカッシーアを引き取ろうという話になったのだ。彼女の母も、大戦中に病で世を去ってしまったことだし、のう」
 同意を求めるように、王が視線をカッシーアへ向けた。彼女は戸惑いを押し隠して、ええ、と頷いたが、その表情が母親を偲んでいるようにも見えて、却って真実味を増幅させる結果となった。
 ミカエルは深く頷いて、カッシーアに向き直った。
「親衛隊長、ミカエル・サーチュアルと申します。どうぞ、ミカエルと」
「カッシーアよ。よろしくお願いします」
 握手のつもりで差し出した手を、ミカエルは敬愛の挨拶を求めるそれと思い、掬い上げて指先に口づけをした。カッシーアは耳まで赤くなったが、王はそのとき、別の宮臣に呼び止められて話をしており、二人の様子には気づかなかった。
「カッシーア、すまない。至急、面会を求める者が来ておるそうだ。行かなくては」
「お構いなく、お父様」
「また夕食の席で話そう。ミカエル、儂の代わりに、彼女に城を案内してやってもらえるか?」
 思わぬ提案に、カッシーアはミカエルの顔を見られないまま固まった。彼は頷いて、王に答えた。
「勿論です、お任せください」
「ああ、よろしく頼む」
 どうやら、あまり待たせたくない相手のようだ。急かす宮臣を宥めながらも、王は背中を向けて、もと来た道を足早に歩いていった。日の当たる石の廊下は、片方が城に面した壁、もう片方が庭に続いていて、三段の階段を下った先で、噴水が静かに水を巡らせている。
「……ごめんなさい、驚かせたわよね」
 迷って、先に口を開いたのはカッシーアだった。カッシーアが何も言わなかったら、ミカエルは立場を弁えて、何も訊ねてこないような気がした。
「謝るのは、私のほうです。王女と知らずに、昨日はご無礼を」
「いいっ、違うの。謝らないで。すぐに本当のことを言わなかった、私が悪いんだから」
「なぜ、あのような場所にいらっしゃったのですか? てっきり、ガートンの孫だと」
「それは……、久しぶりに暮らす街を、見て回ろうと思ったの。開いていた店に入って、店主さんを探しているところに、ちょうど貴方が」
 カッシーアは申し訳なさげに眉を下げた。実際、嘘を連ねていることに罪悪感があった。でも、彼ともう一度、確実に会うためには、こうするしかなかったのだ。靴屋の孫娘では今度いつ会えるか見当もつかないが、王女ならば、親衛隊長と顔を合わせる機会も多い。
 ミカエルは難しい顔をして聞いていたが、やがて確かめるように訊ねた。


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