第二幕:靴屋のヒルダ、或いは王女


「ミカエル・サーチュアルだ。貴女のお祖父様に頼んであった靴の修繕が終わったと聞いて、引き取りに来た。置き場は聞いていないだろうか?」
「ええと……、ちょっと待ってね」
 礼に合わせて、青年の耳にかけてあった横髪が、月の色に光りながら流れ落ちるのに見惚れていたカッシーアは、カウンターに散らばったメモを手当たり次第に漁った。異国の文字だ、でも不思議と意味が頭に入ってくる。何枚か脇へ避けたとき、カッシーアの目に、ミカエルという文字が飛び込んできた。
〈ミカエル・サーチュアル殿の乗馬靴 修繕済 倉庫五段目、右から二つ目〉
 あった。探してみると、意外とどうにかなるものだ。カッシーアは今一度、彼にそこで待っていてくれるよう念を押して、カウンターの奥にある扉の中へ引っ込んだ。
 そこは店内よりもさらに狭く、窓もなくて、ドア以外のすべての壁に天井まで靴が積み上げられた、靴箱そのもののような部屋だった。砂ぼこりと革の匂いに咳払いをしながら、カッシーアは踏み台を引っぱってきて、目的の場所に手を伸ばした。
 ミカエル殿、と小さく書かれた紙と一緒に、深い焦げ茶色のブーツが置かれている。カッシーアはそれを持って、急いで店へと戻った。
「ああ、それだ。ありがとう」
 ブーツを見て、ミカエルが微笑む。彼はカッシーアから一度、それを受け取ると、爪先と靴底を確かめて満足げに頷いた。
「やはり、貴女のお祖父様は素晴らしい職人だ。喜んでいたと伝えてもらえるだろうか?」
「ええ、分かったわ。包みましょうか?」
「お願いするよ」
 ミカエルが靴の出来栄えを眺めているあいだに、カッシーアはカウンターの足元に、たくさんの空箱が積んであるのを見つけていた。ガートンというサインと共に、青いインクで靴のマークが捺してある。きっと、商品を入れるための箱だろう。
 常連らしきミカエルに怪しまれないよう、できるだけ慣れた手際を装いながら、カッシーアは沈黙を埋めるために気になっていたことを訊いた。
「古いもののようだけれど、とてもしっかりした靴ね。乗馬をなさるのは趣味で? 仕事で?」
 ミカエルは一瞬、呆気に取られたような顔をした。カッシーアは自分の質問の何がおかしかったのか分からず、首を傾げた。
 彼は我に返ったように、はは、と軽く笑って、翡翠色の目を和らげた。
「どちらとも言える。子供の頃から馬が好きで、それが高じて騎馬隊に入った」
「騎士なの?」
「そのようなものだよ。どうも、ありがとう」
 話しているあいだに、拙い包装はどうにか形になっていた。カッシーアから箱を受け取って、ミカエルは踵を返す。狭い店内は、ミカエルの足では数歩もゆけばドアに着いた。それじゃ、と彼が振り返って軽く一礼したとき、カッシーアはとっさに、カウンターを出て駆け寄った。
 その足が、散らかしたままだった空箱に引っかかる。
「危ないっ」
 どさっと、大きな音が床を叩いた。それはカッシーアではなく、ミカエルの抱えていた靴が落ちた音だった。彼が反射的に、荷物を投げ出して、カッシーアを抱きとめたのだ。
 蘭の香水のかおりに混じって、かすかな汗の匂いがした。カッシーアは何が起こったか分からずに、一瞬ぼうっとしていたが、すぐに自分を支えている腕が誰のものか思い至って、慌てて身を起こした。
「ごめんなさい、私……!」
「いや、大丈夫か?」
「おかげさまで。ああ、靴を落とさせてしまって」
「構わないよ。貴女に怪我がなくてよかった」
 動揺するカッシーアを宥めて、ミカエルは自分で靴を拾い上げ、今度こそドアをくぐった。カッシーアも彼を見送りに外へ出ると、艶やかな黒毛の馬が待ち構えていて、ミカエルの首に鼻先をすり寄せた。
 ポールに繋いであった手綱を取り、彼は軽やかにその背へ跨った。
「ガートンによろしく」
「ええ。あの、ねえっ?」
 近くへ行って、カッシーアはじっと、ミカエルを見上げた。どうした、と問うように翡翠色の眸がカッシーアを見下ろす。言葉は、春風を吹きこまれたように膨らんでいく胸から、自然と零れた。
「また会える?」
 ミカエルは少し、驚いたような顔をした。けれどそれはすぐ、人当たりのいい笑顔の奥に戻った。
「勿論。貴女がこの店を手伝っていてくれる限りは」
「あ……」
「では、そろそろ失礼。また一人で躓くんじゃないよ」
 からかうように言って、彼は馬を走らせる。蹄の音が土を鳴らした細道を駆けていき、後ろ姿は小路の突き当りで、左へと消えた。
(そういう意味で言ったわけじゃなかった……、んだけど)
 カッシーアはミカエルに、客としての来訪の予定を訊いたわけではなかった。それも分からないような相手には見えなかったのだが、上手く躱されただろうか。気に入らなかったかしら、と考えてから、今の自分が地味な町娘の姿であったことを思い出して、赤い三つ編みを引っぱる。
 カッシーアの肩を、厚い手が、後ろからばんっと叩いた。
「やるねえ、ヒルダ! 振られちまったようだけど」
「えっ?」
「あのミカエル様を相手に、正面切って誘いをかけるとは。正攻法すぎて、むしろ印象に残ったかもしれないよ?」
 三角にしたレースのショールを丸い肩にかけた、中年の女性が立っていた。彼女はどうやら〈ヒルダ〉を知っているらしい。近所の人か何かだろう。
 それよりも、カッシーアは彼女の口ぶりが引っかかった。
「あの人を知っているの?」
「知ってるも何も……あんた、まさか知らなかったのかい? いくら、最近まで田舎に行っていたからって」
 そりゃないよ、と言わんばかりに、夫人は驚いている。馬鹿にされているような気がして唇を尖らせたカッシーアに、彼女は一言一句、教え込むように言った。
「王都に暮らしている限り、あの方を知らないなんて二度と言うんじゃないよ。ワイアット王の親衛隊長にしてクログウェル領主、先の大戦を和睦に導いた功労者。今やこの国で最も王様の信望厚く勇敢な、あのミカエル・サーチュアル様だよ!」


 ミカエルは王都で馬を育て、主に城や城にやってくる貴族を相手に馬を卸す、馬飼いの息子である。幼い頃から馬の扱いに長けていた彼は、父親の伝手で知人の騎士に馬術、剣術を習うようになり、瞬く間にその才覚を現していった。
 騎馬隊の伝令役として召し抱えられた後、数年で隊を率いるまでになり、今では有事にも平時にも、王の身の回りを警護する親衛隊のトップである。由緒ある家柄とはいえ、平民出身の親衛隊長は過去数百年の歴史を遡ってもミカエルが初めてで、今やその名は王様の次に広く知られたものとなった。彼は実力次第で誰でも地位を掴めるという、男たちの夢を証明した者であり、貴族に見劣りしない品格と美貌を兼ね備えた、王都に住む女たちの憧れの的だ。
「なにかな、頼みって?」
 昨夜、名前も知らない夫人に聞かされた話を思い出しながら、カッシーアは正面に浮かんだ夢売りを見つめて、改まった様子で口を開いた。


- 6 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -