第4章


 ――風のジンを、少しの間つけておくから。女でも二人いれば運べるはずだ。
 祖母はその言葉を聞くなり、弾かれたように家へ駆けていって、母と祖父を呼び出した。騒々しさに眠っていた妹と弟が起き出して、ぐったりと横たわった父の体を母たちが運んでいくのを目の当たりにし、真っ青な顔でタミアにしがみついた。
 タミアは二人をぎゅっと抱きしめて、大丈夫、と言った。
 言ったつもりだった。でも、動かしたつもりの唇は震えていて、あ、とも、う、ともつかない嗚咽がこぼれただけだった。
 怖かったのだ。強く、快活で、どんなときも頼もしかった父が、命によって動いている存在なのだという実感が、とめどなく湧いて抑えきれなかった。死を間近に感じたのは生まれて初めての経験で、命が消えるということの恐ろしさを、タミアはこのとき洞穴の底に突き落とされるように深く思い知らされた。生きている、という概念を垣間見た瞬間でもあった。
 その衝撃は声を上げて叫びたいほどに大きく、すぐには飲み下せるようなものではなかったが、タミアは兄弟を安心させたい一心で何とか「大丈夫」と絞り出した。今度はきちんと言葉になり、二人は顔を上げて「本当?」とタミアを見つめた。
 それはタミアがこれまで父を見ていた目によく似た、絶対の信頼をあらわにした眼差しだった。本当だよ、今助けてもらえるよ、助けてもらえたんだよと、背中を撫でて何度も答えてやる。二人はほっとしたように力を抜いて、タミアの脇に顔を埋めた。
 気づけば、タミア自身の嗚咽は止まっていた。
 また泣かなかった。漠然とそう思って乾いた目を擦っていると、目の前に黒い影が立ち止った。銀の糸で細かな文様を縫い取ったローブが、足元まで砂に汚れている。近くに立つと、鉄のにおいが鼻を衝いた。それが何なのか察してしまって、ぎくりと心臓が強張る。
 おずおずと顔を上げたタミアの前髪をかき上げるように、手袋を脱いだ手がさらりと、額を撫でていった。ほんの一瞬の出来事で、あ、と息を呑んだときにはもう離れていた。
 ――この人が。
 遠ざかっていく指の隙間から、タミアは自分を見下ろす視線を感じて瞬きをした。照るような月明かりが何かに反射し、フードの中の暗闇をぼうっと白ませる。
 ――魔法使い、アルヤル。
 金色の目がひとつ、タミアの視線と絡み、すぐにまたフードの陰に消えていった。

 黄金のような眩しさとは違う。
 真鍮のような硬さとも違う。
 燃え盛る炎のような透明度の高い、目映い金の眸が、脳裏に焼きついた。

「今になって考えればね、私が相当、心細い顔をしてたんだと思うの」
 ぱちぱちと燃える焚火に、枯れ枝を一本くべて、タミアは手のひらについた砂をはたいた。
「気丈に振る舞えてるつもりだったけど、アルヤル先生から見たら、痩せ我慢が丸出しだったんでしょうね。しっかりしなきゃ、私が頑張らなくちゃって思って、泣きたくて仕方ないのを無意識に堪えてたわ」
 さぞかし、分かりやすい顔をしていたのだろう。自分のことながら苦笑が漏れる。
 結局タミアは、アルヤルが再び背中を向けて鉱山へ発った途端、堰を切ったようにぼろぼろと泣いた。その涙に妹と弟が驚いて、二人がかりで姉を宥めるという、後にも先にもあのときだけの構図ができあがった。そうこうしているうちに祖母が戻ってきて、父が一命を取り留めたことを教え、もう大丈夫だからと温かいレモネードを作ってくれた。
 額を撫でたあの手は、見えない糸を切ってくれたように思う。その晩はレモネードを飲みながら、祖母に甘えていつまでも泣いた。兄弟が寝て、起きているのはタミアだけになっても、膝に頬を寄せてショールをかけてもらって、ずっとずっとそうしていた。
 わがままを押し通したのは、きっと、赤ん坊のとき以来だった。
 泣き腫らして疲れて眠り、次に目を覚ましたときには、心が一回り大きくなっていた。タミアはすべてのものに命があることを、本能で学んだ。父が失いかけ、取り留めたものの大切さを、言葉では届かない深さで理解して、大人たちと一緒に父の無事を喜んだ。
 後になって分かったことだが、アルヤルはあのとき、大多数の村人の反対を押し切って鉱山へ入っていったらしい。危険だからという反対ではない。魔法使いという存在を村に関わらせることへの、拒絶反応による反対だ。
 タミアの故郷は移民が拓いた村である。かつて西国に住んでいた先祖は、魔法使いというものに良いイメージを抱いてはいなかった。魔法使いとは、悪魔や悪霊に取り入って人ならざる力を得た者であり、その心もすでに人の善良さを失っている。傍に置くと魂を奪われたり、悪の道に誘惑されたり、はたまた悪魔への捧げものにされたりするというのが、昔話でも噂話でも専らの認識だった。
 その考えは、閉鎖的な村の中で代々当たり前のように受け継がれた。


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