第三楽章


 夢、アラベスク、月の光。
 ドビュッシーは十九世紀後半、フランスを拠点に活躍した作曲家だ。それまでの西洋音楽の概念にとらわれない作曲で、印象主義音楽と皮肉を受けながら、後世に多くの楽曲を遺した。
 外回りの途中、人目を忍びながらちょっとだけ、と入り込んだCDショップで、慣れないクラシックの棚の中にその名前を見つけて、手を伸ばす。これはオーケストラなのか。何だろう、この帯に燦然と書かれている名前は、と思って携帯を取り出し、検索をかけてみる。有名な指揮者の名前だということがやっと分かった。
(どれが、ピアノの曲なのかしら……全然見当がつかないんだけど)
 携帯をしまうついでに時計を確認しつつ、もう少しだけ、と棚を物色する。
 一昨日、凪に初めてピアノを弾いてもらってから、私は一晩の間に、動画サイトで色々なクラシックの曲を探した。実を言うと、「ドビュッシー」が何なのかもぼんやりとしか知らなくて、最初はそれを検索するところから始まった。
 凪に訊くのも、何となく悔しいものがあったのだ。全然知らない、とは宣言したが、具体的にどこまで無知なのかを晒すのは、年上のプライドが邪魔をした。
 かくして私は一晩で、大御所と思われる作曲者や曲名を頭に詰め込んでみたわけだが、月の光が聴きたいというと凪はあっさり弾いてみせた。それどころか、私が一晩で暗記したタイトルの半分以上は、全体か一部かに違いはあれど、楽譜などなくても弾けたのだ。
 全部有名どころじゃん、と凪は笑う。言葉に詰まって一番好きなの弾いてと言ってみたら、昨日聴かせたと返ってきた。今度は凪が、私を試す番だった。覚えてる? くちずさんで、と挑発的に首を傾げた、あの得意げな、確信犯の顔を私は絶対に忘れない。
 何歳からやってるの、と訊くと、先生がついたのは三歳と言っていた。それより小さい頃から、ピアノ自体は家にあって、母親が毎日のように弾いて聴かせていたとも。
 ベートーヴェン、バッハ、リスト――私が挙げる、ネットで叩き込んだだけの、傾向も作者もてんでばらばらの曲に、凪の知らないものはなかった。けれど彼が楽譜を見なくても通して演奏できる曲は、ほとんどがドビュッシー、時々ショパンのものだった。
 体温を少しだけ下げるような、悲愴感と呼ぶには生暖かく、けれどこれに歌をつけたなら、きっと幸福を歌ってはいないだろうと思われるような、そんな曲だ。やっぱ明るい曲のほうが好き? と訊かれたが、自分でも意外なことに、そのあと凪が弾いてくれた軽快で愛くるしい数曲には、それほど心を掴まれなかった。
(音楽、ねえ……)
 視聴のコーナーに並んでいた数枚の中から、ピアノのCDを聴いてみる。曲目のいくつかに、昨夜凪に弾いてもらったものが入っていた。
 こうして聴くと、演奏の癖や強さが違うのがはっきりと分かる。昔、ほんの一年足らず習ったピアノの先生が言っていた「もっと表現を」という言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
 別の一枚を手に取ってみる。同じ曲なのに、今度はひどく優しく、眠くなるような弾き方だ。演奏者によって楽曲はこうも表情を変える――私は凪の演奏を聴くまで、こんな歴然とした違いに、どうして気づかなかったのだろう。ピアノといったらどれも同じ音にしか聞こえなくて、演奏といったら淡々とした音の羅列にしか感じたことがなかった。
 まるで耳が錆びていたみたいだ。
(プレリュード4番? あとは……あ、これも聞いたことないタイトルだわ。でも初心者向けっぽいアルバムだし、凪は知ってるかな)
 CDを買おうというのではなく、ただひたすらに、収録された曲の中から見覚えのないものを探している。一曲くらいは、凪が頭を抱えるところを見てみたかった。
「ありがとうございました」
 単調な、さして熱のこもっていない店員の声に見送られて、店を出る。そろそろ約束の時間だと、私は取引先のドラッグストアを目指して歩き始めた。大通りへ出て、スクランブル交差点で信号待ちをする。平日の昼間だというのに、案外人が歩いている。
『――それでは、次のニュースです』
 角に聳える大きなビルのスクリーンから、昼のニュースが流れていた。
『音ノ羽ジュニア・ピアノコンクールにて、不正な審査が行われた件について……』
 向かいで信号が変わるのを待っている人々は、背後から流れるニュースに見向きもしない。
 私もそれほど興味はないが、一人暮らしになってから部屋にテレビを置いていないので、時事の話題は貴重だ。ぼんやりと顔を上げ、スーツ姿のベテランアナウンサーが、デパートのアナウンスのような声で記事を読み上げるのを眺める。
『審査員長である戸坂氏は、優勝した少年の両親から献金を受けていたことが発覚しました。警察は常習的に賄賂を受け取っていた可能性があるとして、調査を進めています』
 アナウンサーの背後に映し出されている風景に、ふと、見覚えがあるような気がして瞬きをした。石の階段。光を遮るものがほとんどなくて、眩しい。
 その写真が、ふいに別のものへと切り替わる。
『尚、この大会に出場し、現在行方不明となっている、準優勝の天川凪くんについて』
 信号が、青になった。
 画面の中もアナウンサーが消え、背景が青くなって、一枚の写真が大きく掲げられた。人が歩き始める。スクランブルはとたんに彩りで溢れ、ビルの壁に取りつけられたスクリーンの音声は、視覚障がい者を誘導する信号の音にかき消される。
『警察は引き続き、情報を募集しています。天川くんは結果発表の直前、控室で先生と話したのを最後に行方が分からなくなっており――』
 私は、動けなかった。
 目が画面に、足が地面にはりついてしまったように、信号の音を聞きながら、微動だにすることができなかった。向かいから渡ってきた人が、邪魔そうに舌打ちをしても。私の目線を追ってモニターを見やり、何なんだ一体、と言いたげに避けていっても。
 私は画面に残された、凪の写真から目を逸らすことができなかった。行方不明、の文字が鼓動に合わせてどくんどくんと震えている。
『それでは、次のニュースです』
 気がついたら、信号はまた点滅を繰り返して、赤になっていた。
 行方不明、天川凪。私はその写真の、真っ白なシャツを着た少年が、今朝は紺のポロシャツとアイボリーのパンツを穿いて、青い歯ブラシをくわえて笑って、白いテーブルでクロワッサンを食べたことを、よく知っている。


 アパートに帰ると、階段の下までピアノの音が漏れてきていた。手すりを伝い、螺旋のように、滑らかな演奏は途切れることなく零れてくる。
 階段を上がり、鍵穴に鍵をさして回す間、これは何の曲だろうと考えるともなしに考えていた。綺麗に続いている。ドビュッシーだろうか、それともショパンか。あるいはまだ、私の知らない誰かが作った、聴いたことのない曲か。
 玄関に入って靴を脱ぎ、夕飯の材料を片手にリビングを覗く。足音が聞こえたのか、凪が先に振り返った。
「おかえり」
「うん、ただいま……」
 演奏の手を、とめないままで。向けられた笑顔に、思わず習慣化しつつある返事をしてしまう。凪はそんな私の声に滲んだ、小さな戸惑いには気づかないで、背中を向けて演奏を続けた。
 その手が、横顔が、白い素足が。今このときも、何人もの大人によって探されている。
「ねえ、凪」
「ん?」
「音ノ羽ピアノコンクールって、何?」
 演奏の終わりを待って、私はできるだけ、声が硬くなるのを抑えながら言った。問いかけた瞬間、背後で弾くともなしに辿られていた鍵盤の音が、ぴたりと止む。


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