第二楽章


 どうりで初めに来たとき、ピアノに興味を示していたわけだ。見れば、アップライトの上は朝と同じようにぬいぐるみが置かれている。けれど昼間、私が留守の間に、どかして弾いたとしても何ら戻せないものではない。
「弾けるよ。勝手に触って、怒った?」
「別に、ピアノは触ってもいいわよ。ただ、ちょっと驚いたっていうか」
「隣の人は? うるさかったって?」
「……逆。あんなに上手な演奏が弟なのかって、びっくりしてた」
 プロのCDでも流しているのかと思ったのよねえ、と。隣の奥さんは笑って、あっけらかんと言ったのだ。ずっとCDだと思って聞き流していたのだが、あるとき間違って、少し前からやり直したので、やっと生身の演奏だと気づいたのだと。
「またいつでも練習してほしいって言ってたわよ」
「へえ、それなら良かった」
「私も、ピアノは自由に使ってくれて構わないわ。だけど、どうして教えてくれなかったの?」
 雑誌を抱えて、凪は首を傾げた。
「……聴きたかった。昨日だって、丸一日一緒にいたのに、少しもピアノに興味なんてないそぶりだったじゃない。出かけてる間にこっそり弾くなんて、なんか隠されてる気分。できるって、最初から言ってくれればよかったのに」
 そうしたら、私だってピアノの上の荷物を片づけておくくらいのことはしただろう。わざわざ留守の間に使って、元の状態に戻しておくなんて、ごまかされているみたいで居心地が悪い。
 仮にも私の家なのだから、使うなら使うで堂々と、私の前でも使ってほしかった。
 膨れていると、凪が呆れたように髪をかき上げる。
「家賃になるような腕前じゃないから、聴かせなかったんだって。隠したわけじゃないけどさ、頼まれてもないのに自分から演奏するとか、いい迷惑じゃん?」
 その手の下から覗いた目が、出会ったときの顔を彷彿とさせて、胸がどきりとした。ときめきの可愛らしいどきりではなく、細い糸の上を歩く綱渡り師を見たときのような、悪い想像をする一歩前のどきり。
 私はどうして凪に、この種の感覚を抱いてやまないのだろう。
「……誰も、そんなひねくれたこと言わないわよ」
「はづき?」
「いいじゃない、聴かせてよ。お隣さんに話を合わせるためにも、私も聴いておきたいもの。何か弾いて」
 疑問を振り払うように、正面に座ってねだる。凪はぎょっとしたような顔をして、私から目を逸らした。私は構わず、凪の顔を見て、返事を待った。
「……いいけど、弾き始めたら最後まで通したいんだ。気に入らなくても、途中で止めるなよ」
 観念したように、深く息をついて凪が言う。約束する、と頷いた私を見下ろすように立ち上がり、彼はゆっくりとピアノに向かって、ぬいぐるみをどかした。
 レースのカバーがまるで、今までにも毎日扱われてきたみたいに、なめらかに開かれる。
 ごとり、と引かれる重い椅子と、白い光を走らせながら開く、鯨の口のようなアップライトの蓋。鍵盤が歯のように並んでいる。いいピアノの鍵盤は象牙でできている。私はこのピアノが象牙なのかどうか、確かめたこともないし知らない。
 それでも凪の人差し指が、ポーン、と最初の音を鳴らしたとき、記憶の中にあるこのピアノの音と同じピアノと思えないくらい、その音は深く、静かに震え、体の中に眠っているすべての骨と共鳴して、私に響いてきた。
 演奏が、夕立のように溢れる。
 溢れる、という言葉以外、私はその演奏を表現する言葉を思いつけなかった。グレーのパーカーをはおった凪の両肩が、古い舵を回すように、私のピアノから音を汲み上げている。使われることなくしまいこまれて、ピアノの底で澱んでいた音たちが、後から後からとめどなく溢れてくるのを私は聴いた。
 それは、大小さまざまな水の粒を糸にして、幾重にもより合わせて編んでいくような。
 やがてそれが透明な帯になって天井から部屋を覆いつくし、再び水に戻って私たちの上へ降り注ぐような、そんな音色だった。
 浅い水たまりに浸されたように、心がとらわれ、溶けだしていく。涙のようにぬるくて、冷たい。温もりと、急速に冷めていく温度のどちらもが内包された無数の滴が、私の髪を伝い、頬を流れ、体を濡らしていく。
 どれくらいの間、そうして座り込んでいたのだろう。
「……はい、終わり。なんて顔してんの」
 口、開いてるよ、と。振り返った凪に心底呆れた顔で言われるまで、私は演奏が終わったことにも気づかず、呆気にとられていた。はっとして口を閉じる。余韻の水を飲みこんだ心地がした。
 音楽なんて、ろくに聴いたことのない耳だが、分かる。
「すごい、ね?」
 今の演奏は、私の知っているピアノ――音楽教室の発表会や合唱コンクールの伴奏など――のレベルではない。そういう一般的な範囲を超越した、澄んだ、高みの空気の中で奏でられるような演奏だった。講堂で弾かれたら、きっと合わせて歌うのではなく、皆静まり返ってしまう。そういうレベルと、質だ。
 凪のピアノは「聴衆」へ向けて「聴かせる」ために放たれてくる、抗いがたいエネルギーを持った音。ピアニストの弾くピアノのような、演奏だった。
「なんで疑問形……」
「いや、あんまりびっくりしちゃって。上手いんだろうとは思ってたけど、想像のだいぶ彼方だったっていうか」
「大げさ」
「大げさじゃないわよ。だって、音が出ない鍵盤も結構あったでしょう? どうやって弾いてるの」
「不協和音にならない、他の音に入れかえてるだけ。昼間触ってて分かったけど、狂ってるのなんて、ほんの三つ四つだし」
 居心地が悪そうに、椅子の上であぐらをかいて、凪は背中を丸めた。蓋も閉じて、この話はもうおしまいという雰囲気を出していたけれど、私のほうはちっとも驚きが冷めやらない。
「楽譜、見ないんだね」
「今のは何度も弾いて、大体覚えてるから」
「なんて曲?」
「ドビュッシーの『夢』。聴いたことない?」
「全然、ない。私、クラシックとか? 全然知らないから」
 すっぱり言い切ると、凪がため息をこぼす。
「そんな人に、真面目に弾いてやるんじゃなかった」
「う……、ごめん。でも、だからこそじゃないかしら。すごかった、って分かるの」
「なんで」
「飽きなかったからよ。私、ピアノの演奏を聴いて、いいとか悪いとか思ったことなかったの。何を聴いても、さらっと滑っていっちゃって」
「……」
「でも、凪の演奏は、あっというまだった。私のピアノって、こんなふうに鳴るものだったんだ、って、ずっと聴きいってた」
 思い返すと耳の奥に、まだ音が残っている。一音一音が鮮烈で、ピアノとはこんなに「聴ける」楽器だったのかと思い知らされた。淡々と退屈に流れていくだけではない、空気を染め変えて、色づけるような演奏。私はこれまでに、そんなピアノを聴いたことはなかった。
「ありがとう、凪。貴方ってすごいのね」
 すごい、以外に繰り返せる言葉が出てこない自分をもどかしく思いながらも、急なお願いにきちんと応えてくれた礼を言う。凪は何も言わなかった。片膝を抱えて曖昧に笑い、髪をくしゃりとかきあげた。
「子供みたい、はづき」
「仕方ないじゃない。他になんて言ったらいいのか、分からないんだもの」
「ほんっと、芸術とか無縁って感じ? まあでも」
 軽やかに、椅子から立つ。その足元がもたついたスウェット姿なのを見て、私はようやく、買ってきた服をテーブルの上へほったらかしにしたことを思い出した。
「はづきが怒らないなら、いつでも弾けるのは気楽かな。また貸して」
 に、と上機嫌に、凪は笑った。


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