第三楽章


「いつから、知ってたの?」
「今日、偶然外で、ニュースが流れてて。……凪が行方不明だ、って」
 買ってきたものを冷蔵庫に入れて、私は凪のほうを振り返った。ピアノの椅子に座って、凪もまっすぐにこちらを見ていた。
 その目が、一気にこれまでなかった鋭さを増した気がして、思わず息を呑んでしまう。
 凪の目は、私を見破ろうとする透明なナイフみたいだった。
「誤解しないで。誰かに言ったとか、警察に連絡するとか、そういう話をしたいわけじゃないの」
「……そうなんだ?」
「……コンクールのこと、訊きたい。どうして凪が今、ここにいるのか……私が一番知りたいのは、それだけ」
 疑心と敵意を剥き出しにした眼差しに、怯んだわけじゃない、と言ったら嘘になる。本当は分かっている。私たちは、あのニュースから目を逸らしてはいけないのだ。
 凪は子供なのだから、私がちゃんと言わなくてはならない。社会になすべきこと――ここを出て、所在をはっきりさせて、自分の家に帰ることをさせなくてはならない。
 分かっているけれど、言えなかった。それを口にしてしまったら、凪はもう二度と、私と口を利かないような気がした。そして、家にも帰らない。ああこの予感は、凪と話していると、いつも付き纏ってくる。
 ここにいるのに、あと一歩でも手を伸ばしたら、鏡の裏に逃げてそれっきりになってしまうような。
 正体の掴めない予感が怖くて、私はただ、一番必要なことを言わずに受け入れること以外、凪に近づく方法を見つけられない。
「技術面でも、曲目でも、表現力でも。絶対に優勝だったって、確信があったんだ」
 ぎしっと、ピアノの椅子が小さく軋んだ。片膝を抱えて背中を丸め、凪は吐露するように呟く。
「音ノ羽は、オーケストラが主催のコンクールで、優勝すると一年間、契約がもらえる」
「契約って?」
「オーケストラ専属の、ピアニストになるんだ。若いピアニストの育成を目標にしてるコンクールだから、優勝さえすれば、何歳だって関係ない。すべての演奏会に呼ばれるわけじゃないけど、地方のホールでやる演奏会では結構弾かせてもらえて、一気に名前が広まる」
「……登竜門みたい」
「そう言われてるよ。……だから、毎年たくさんの参加者が、予選から本気で戦ってる」
 その中に、自分もいたんだ、と。暗に告げるように、凪は私を見て頷いた。ニュースの音声と、今目の前にいる凪の視線とが混ざり合う。私の中で接触し、離れ、一つの像を結ぼうとぶつかって、真実の火の粉を散らす。
「準優勝が悔しくて、逃げた……ってわけじゃないわよね」
「当たり前じゃん。おれが表彰式を抜け出したのは、別に二位が恥ずかしかったわけじゃない。出られなかったんだ」
「本当のことを、聞いてしまったから?」
「うん、そう」
 くしゃりと、自嘲するように凪は笑った。その顔があまりに弱々しく、渇いて疲れ果てた野生の生き物みたいだったので、私は思わず凪の前に歩み寄らずにはいられなかった。
 傍にいって、膝をつくと、凪が私を見下ろす。私は凪の薄い肩が落とす影の下で、ただじっと、彼が次の言葉を発するのを待っている。
「ほんの偶然だよ。運の悪い、通りすがりだった」
 自分に言い聞かせるように前置きして、凪は打ち明けた。ニュースで盛んに報じられていた、優勝を賭けた賄賂のことを。

 表彰式の前、凪は控室で先生と話していた。先生は彼の出来栄えを絶賛していたし、凪自身、今までの練習の成果を発揮して、まだ余りある演奏ができたと自負していた。ライバルは大勢いたが、今年は自分の耳で聴いても、凪の演奏を上回るものはなかったと思えた。優勝の背中が瞼に見えていた。手を伸ばせば、それを振り向かせることができると、信じて疑わなかった。
 このときはまだ、当然、この後の式で発表されるはずの順位など知らなかったけれど。
 凪は先生と話した後、時間まで少し余裕があるのを見て、化粧室へ席を外した。白く磨かれたホールの廊下は、清潔な革のソファに似た、公共施設特有の匂いがする。ぬるい冷房にネクタイを緩めようとして、一人ではあまり綺麗に結べないことを思い出し、手を止めた。
 そうして白っぽい明かりの点る角を曲がって、関係者用の手洗いが見えたとき。通りすがりの控室から、声が聞こえたのだ。
「――お願いします、どうか! 凪をお願いします!」
 それは、この場所にいるはずのない、彼に最も近い女の、叫ぶような声。聞き間違えようもない、彼の母親の声だった。
 母親は妹に連絡を取ると言って、ホールの外に行ったはずだった。控え室には名札がかけられておらず、ここは使われているはずのない空室だ。どうして、と思うより先に、足が止まってしまった。
 母さん?
 もしも凪がとっさに一言、そう声をかけていたら、状況は大きく違っていただろう。
「あの子が、一番上手だったじゃありませんか。なのに、準優勝だなんて……こんな審査、素人から見たって分かります。不当です」
 けれど凪は、動けなかった。体も、声も、感覚も、すべてが凍りついてしまったように動けなかった。
 ――準優勝?
 文字を成さない響きだけの言葉が、頭の奥をどろりと冷やす。しかし、その後に聞こえてきた会話は、彼にとって順位や成績以上の衝撃をもたらした。
「不当な審査、ですか。あなたがそれを仰るとは、面白い夢でも見ているようですよ」
 あはは、と朗らかに笑う、老いた男の声。白髪と銀の丸い眼鏡が、それだけで思い出されてくる。
 音ノ羽コンクール総主催であり、オーケストラの指揮者兼団長を務める、戸坂の声だった。やあ天川くん、期待しているよ、と微笑みかけたときと同じ。誰に対しても明るくて、不平等などひとつもないような声で、戸坂は言ったのだ。
「十年前、あなただって同じ手を使って、息子を優勝に押し上げたではありませんか」
 ――十年前。その言葉は、凪の額に冷たくはりついて、ゆっくりゆっくり、体の芯へと下りていった。そう、十年前。凪は一度、この音ノ羽コンクールに付属する、アンダー十歳の部門で優勝している。
 初出場にして、並み居る常連の子供たちをその小さな手でかき分けて、表彰台の頂上に登った。
 それが天才少年ピアニスト、天川凪の、最初の記憶だ。銀色のフラッシュと金色のスポットライトに塗れて、その天才は生まれた。
 若干四歳という、まだ自分が人間として、この世に生を受けた自覚さえ不明瞭な歳で。
「私たちはあなたにだって、協力しましたよ。小さな天才を、ちゃんと手に入れたでしょう?」
「……っ、でも、約束が違うわ。それなりの歳になったら、ピアニストとして契約もするって」
「ええ、そうですね。何歳とはお約束していません。凪君が出場してくれると、他のお子さんにも張りがあっていいですね。また来年も、お待ちしていますよ」
「そんな、だって来年はまた色んな子が出てきてっ、そうしたらあの子が優勝できるかなんて」
「天川さん、あのねえ」
 戸坂の声は、いつも幼稚園の園長先生を思い出させた。そういう温かみと、触れたら抱きしめてくれて、古い木の匂いがするような、人の心をほっとさせる種類の声をしていた。
「順位はもう、決まったことです。我々も、音楽を奏でるだけで、気楽にやっていける時代ではなくなってしまったのでね。今年の優勝が欲しければ、結城くんのご家族を越える、あなたの気持ちをくださらないと。今からでも、間に合いますよ。まあ、ちょっと裕福なくらいでは、到底手の出ない額だとは思いますが」
 議員さんというのは、やはり忙しいお仕事なんでしょうね、と。戸坂はなんでもない会話のように、変わりのない口調で告げた。結城、という名前の少年は、数年前からコンクールに出始めたので、凪も知っていた。
 今日の演奏は、凡ミスだらけでお世辞にも上手いとは言えないものだったのに。


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