2:シュルークの皇子


「違います、誰でもありません」
「何だって?」
 青年――もとい、ジャクラがわずかに目を瞠る。
「誰かに指示されたわけではなく、私の判断でしたことなのです。ニフタで、シュルークのことを学んだ書物に、花嫁の礼儀として記されていたもので……」
 ルエルは彼の目を見上げて、淡々と、しかし早口で告げた。誰に教わったものでもない。これはルエルが、ニフタを出る前に、導師に頼んで取り寄せてもらった書物に載っていた作法を真似ただけなのだ。
 シュルークでは伝統として、高位の者同士が婚約の場で初めて顔を合わせる際には、花嫁は相手に求められるまで、その顔を見てはならない。
 聞いたことのない話ではあったが、なにぶんシュルーク帝国という国に無知だったこともあり、そうする以外にどんな態度で出て行くのが適切なのかも分からなかった。ニフタとシュルークはあまり、交流が盛んではない。敵対もしていないが干渉もしておらず、商人たちの行き来には門を開いているが、公的な協力や貿易と呼べるものはしていなかった。
 砂の海に隔てられた、近くて遠い、未知の国。ニフタの生き字引と呼ばれた導師でさえ、シュルークについて知っていることはほとんどなかったのである。
「うちのことを、勉強してきたということか?」
「ほんの……、少しではありますが」
 だからルエルも、書庫に眠る少ない書物を捲って、導師と共にそれを読み解くくらいしかできなかった。あれを勉強といっていいものか、迷いつつも控えめに頷く。

 ニフタとシュルークは、長い歴史を辿れば同じ国である。絶対的な統治者が治めた、広大な土地の一部分。大きすぎたその国は統治者の没後、何代かに渡って治められてきたが、四百年前、内乱をきっかけにして東西に分かれた。その東西がさらに、紛争や独立、諍いからの脱却によって、大小さまざまな十を超える国へと分裂したのである。
 ニフタはそれらの国の中では西寄りの、太祖ともいえる統治者が東を拠点に侵攻してきて、晩年に治めた土地だ。シュルークはそこから更に西へ、砂漠を跨いでぽつりと、一国だけ存在している。統治者が、彼の歴史の最後に手に入れた土地である。
 砂漠に隔てられたこの土地は、彼ら一族の所領に加えられてからも、支配が及びにくく、他の地域とは少し違った気風を持ち続けた。遠方であったこと、また同時に、この地域の人々があまり好戦的でなく、文化を潰してまで支配する必要性を感じ得なかったことなどが、統治者の一族の記録に遺されている。
 何もかもが東と違い、この土地はそれ自体が、手に入れたというだけで満足のできる生きた嗜好品であり、これが私の手の内にあると思って遠くから眺めているだけで十分なのだと――草の撚糸で束ねられたパピルスは雄弁に、彼らの往時の思いを語っている。建物にしても、人々の服装や食べ物、生活に溶け込んだ習俗にしても。

「そうか、それは――――だ」
「?」
 そして、言語にしても。
 見えない目の代わりに弟子を座らせて、写本を捲る導師の手の分厚い爪を思い出していたルエルは、ジャクラの言ったことが一瞬聞き取れなかった。あ、と戸惑った顔を見て、ジャクラが気づいたように笑う。
「ああ、すまない。光栄だと言ったんだ。あなたの心意気に感謝していると、そう言いたかった」
 彼は、今度はゆっくりと、先ほどよりもはっきりした口調で言い直した。
 統治者が同じだったこともあり、使用されている言語も元は同じだ。だが、シュルークはニフタに比べると、独特の訛りが強い。ここへ来るまでにも何度か、使者たち同士の会話は聞き取れないときがあった。彼らは余所の者であるルエルや、ニフタの行列に対しては、非常に気を配った話し方をしているようだった。
「改めて、俺がシュルーク帝国第一皇子、ジャクラだ。この度の話を引き受けてくれたこと、感謝している。ニフタの姫」
 軽やかに、弾むような礼をして、ジャクラはルエルの手を掬い上げる。大きく乾いた褐色の手のひらと、華奢で太陽を見たこともないように白い手と、二つの相対的な手が天地のように重なった。引かれるがままに、ルエルは立ち上がる。ヴェールが煽られ、形を崩されて、遮るものを失った視界が突然ひらけた心地がした。
「堅苦しく構えてくれる必要はない。大昔は同じ、一つの国だ。呼んだのはこちらであるのだし、気を楽に過ごしてくれ」
「あ……」
「歓待の宴は明日にしてある。今日のところは、夜通しの旅で疲れているだろう?」
 ヴェールの開いた視界に、直接差し込む日差しが眩しい。昨晩の寝不足のせいでもあるだろう。ルエルはジャクラの言葉に、控えめに頷いた。本来ならば皇帝への挨拶を申し出るべきなのかもしれないが、明日にしてくれるというのなら、できればそうさせてもらいたい。
「奥に部屋を用意してある。案内をつけるから、今日はゆっくり休むといい。ああ、それから」
 ジャクラはそれで当然というように、滞りなく話を進めた。ルエルの背後に控えているニフタからの付き添いたちを見て、傍に跪いていたシュルークの使者を立たせ、慣れた様子で指示を出す。
「この者たちにも大部屋と、食事の用意を。青の間の、大広間を使ってくれ。他にも大勢いるだろう」
「かしこまりました」
「父上には俺が伝えにいく。お前たちは全員、準備に当たってくれ」
 使者が下がるとすぐに、柱の傍から宮女が向かってきた。シュルークの女性特有の、片手を鎖骨の間に当てるような礼をして、ジャクラに一言二言の指示を仰ぐ。会話は速く、ルエルには所々しか聞き取れなかったが、どうやら食事を部屋に運ぶかどうかと訊ねてくれているようだった。ジャクラは頷いて、ルエルに向き直った。
「細かな話は、明日以降にしよう。またな」
 愛想よく笑いかけられ、遅れ気味に頭を下げて、背中を向ける。宮女はサルマと名乗り、ルエルと、ごくわずかなニフタのメイドを連れて、謁見の間を後にした。


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